学校教育の社会的弊害(1)

学校教育は、日本社会を社会依存症に感染させてしまった。

社会の根本は教育にある。つまり社会のボトルネックは教育にある。 日本人のほぼ全員が十数年の学校教育を受けて子供時代を過ごしている。 その影響は計り知れない。 影響を想像することができないほど、大きな影響だ。 宇宙を想像するのと似ている。 心の世界を想像するのと似ている。 あまりにも巨大すぎてピンとこない。 国債700兆円を想像するのとも同じ。 まったく実感が湧かない。 新興宗教などの話題になると「洗脳」という言葉が使われるが、教育は洗脳の比ではない。 洗脳の影響力が「手榴弾」だとすると、教育の威力は「水爆級」である。 洗脳が「砂場で作った山」だとすると、教育は「エベレスト」である。 そのくらい影響力が異なる。 いやそれよりも遥かに大きな影響力を持っているかもしれない。 おかしなプログラムに洗脳されている人を第三者の立場から見ると、何かしら異様な感じを受ける。 そういう人の印象は「自覚症状がない」ことだと思う。 完全に信じ切って、微塵も疑っていない。 これは日本人という国民そのものにも当てはまると僕には感じられてならない。 完全に信じ切って、微塵も疑いを持っていない。 自覚症状がない。 僕の目には、日本人という国民はいつも自覚を失っているように見えてならない。 国家レベルでの脅迫的集団洗脳状態のように思えてならない。

日本人全員が十数年の学校教育を受けて子供時代を過ごしている。

教育についての議論は、いつも単調で平板に聞こえる。 同じ場所をグルグルと回って、いつも同じ場所に戻る。 ゆとり教育の議論もそうだ。 結局学力低下が叫ばれて、元の学力重視路線に戻ってしまった。 「なぜ学校教育は変わらないのか?」 この問題意識を本気で感じることのできる人は、おそらくほとんど皆無であるはずだ。 それくらい「感じることが難しい」問題意識。 なぜなら学校教育というものは、そこに暮らす人にとって「空気」と同じくらい当たり前のものだから。 社会と教育は表裏一体。 この問題意識を本気で痛感する方法は、一つしかない。 「本当に意味ある学びを、自分自身で体験する。」 大人の側が、本物の勉強を自分の肌身で体感する。 それ以外に教育の抜本的改革の道はありえない。

ボトルネックに気づくのは容易ではない。

教育という社会のボトルネックに気づいたが、本当に大変なのはそこからだった。
社会のボトルネックがなぜ変わらないのか?そこにはそれだけの理由がある。
社会という巨大な国家的規模の軽石があったとして、教育という青色インクがあったとする。
巨大な軽石である社会は、教育という液に50年以上漬けらつづけている。
当然、どこを切っても真っ青に染まっている。染み抜きは不可能だ。

でもところどころ、青色に染まっていない部分もある。
それが俺のようなタイプの人間。以心伝心が探す原石。
社会という巨大な洗脳装置に染まっておらず、自分で考える力を守っている人。

社会のボトルネックに気づくには、素頭の良さがいる。
IQとは違う。また、シャーロックホームズ的な頭のよさとも違う。
僕は探偵小説に興味を持てない。
奇怪な難問事件を解決したから、なんだっていうんだ?
世の中には日々事件が起きている。
目先の事件を解決しても、根本的な解決ではない。
そんなことに熱中する探偵は、素頭がいいとは思えない。
根本から、本質から、解決すべきなんだ。
目の前の犯人探しをいくらしても、問題は先送りされるだけ。
本質や根本に関心を持つ人が増えないといけない。
社会のボトルネックに気づく人が増えれば、世の中は大きく変わる。

教育について語るとき、学校教育が大事か、それとも家庭の教育が大事かという議論がなされる。 言うまでもなく家庭での教育はとても大事であるが、根本は学校教育の側にある。 なぜかというと、親たちが長年の学校教育を受けて育っているから。 もし学校教育のカリキュラムに問題があれば、その影響は家庭での教育にそのまま反映される。

教育は、「想像力」に絶大な影響を与える。

教育がもたらす社会的影響。
特に無関心さやリスクの社会化について。
学校教育は、人から目の輝きを奪う。
物事にあるがままに関心を持つ、ナチュラルな好奇心を奪う。
その結果、日本の大人は、狭い想像力しか持てなくなった。

教育がもたらす社会的影響。
特に無関心さやリスクの社会化について。
学校教育は、人から目の輝きを奪う。
物事にあるがままに関心を持つ、ナチュラルな好奇心を奪う。
その結果、日本の大人は、狭い想像力しか持てなくなった。

なぜ日本人は、互いの顔色を窺いながら、生きないといけないのか?
一人ひとりが個として自律し、自分たちの幸せを追求しながら生きてゆけないのか?
学校教育がひとりひとりの日本人から奪いとったものは、なんであったか?
狭い教室に40人もの人が詰め込まれて、いつも他人の目がある場所で、日々すごさなければいけなかった。
何をやっていても、常にだれかの目がある。
何をやるにも集団単位で行う、ということが常態化した。
自分がどう思うかよりも、周りがどう思うか、が優先されるようになった。

学校教育の弊害

学校の問題は、教え方が悪いとか、そういうことではないと思う。 何よりの問題は、「大切な時間を奪っている」ということ。 本来、学ぶべきことは世の中に満ちている。 その学びの時間を、学校教育は大量に奪ってしまう。 毎日狭い教室、校舎に閉じ込められて、その外に広がる最高の学びから遠ざけられる。 人として本来考えるべきこと、想像すべきことを、今の日本社会では想像することが許されない。

従来の学びには、まず「答え」が用意されていた。
考えることそのものよりも、いかに正解を効率的に出すかが重要だった。
そこには「思考のボーダーライン」と呼べるものがあった。
「これ以上は考えなくていい」という暗黙の了解。 従来の頭の良さとは、そのラインを適切に判断し、世間で求められる答えを柔軟に操ることだった。

教育がもたらした弊害。
考える力を奪い、疑問を持たない、社会依存の強い人たちを大量に生み出した。
その結果、心ないリーダーたちが世論をうまく利用し、改革不能の状態にしてしまった。

“自分の頭で悩んで葛藤を抱くべきところを、答えを先回りして簡単に手にしてしまう。 ”

学校で習った数々の「勉強内容」は、 今、僕たちの中でどのように育っているだろうか?
歴史の授業で習った無数の知識は、物語として多重的に育っているだろうか? 生物についての知識はどうだろう?
おそらく僕と同じように、ジャンク、ゴミのように無数の塵として記憶に散らばっているだけではないだろうか。
理解に繋がっていない、ただ知っているだけの知識。
学校教育において十数年、毎日毎日苦労して勉強した サイン・コサイン、エドワード・モース、ゴルジ体、古文・・。
無数の知識のほとんどが、記憶の墓場行きになっている。
なぜ僕たち日本人は、そんな無意味なことを延々とやるのだろう?
学校教育のカリキュラムは、記憶の合理的なシステムに合わない学び方を続けてきた。
潜在意識は拒否反応を起こす。
その拒否反応が「なんでこんなことやるの??」 「勉強は面白くない」という不快感をもたらす。
学校教育での学び方は、人間の記憶のメカニズムにとって、不自然なのだ。
日本人の人間性、人間力の低下の原因はここにある。
国民全員で、戦後ずっとその不自然な頭の使い方をやってきてしまった。

日本がビジョンを持てない理由は教育にある。

世の中を変えるためには、教育制度を変えないといけない。
知識を詰め込むだけ、効率的に正解にたどり着くテクニックだけの日本の教育制度。
日本の教育は、学ぶ人間自身に「考えさせる」ということをしない。

結果、僕たち日本人は自分で物事を考えることのできない国民となった。
世界中から資源を集め、技術を開発し、この小さな島国が世界第二位の経済大国となった。
たしかに僕たちは何不自由のない暮らしができている。でもそれが果たして僕たちが本当に望む豊かさなのだろうか?
効率性を重視し過ぎるあまり、僕たちは大事なものを見落としていないだろうか?

秋葉原通り魔事件、親族殺人、近年頻発する「想像を超えた事件」が、今の社会が限界に近付いていることを示唆している。
ギスギスした時代の空気、世知い世の中。社会のタガが外れたような、理解の度を超えた事件が毎日のようにおき、僕たちの感覚も麻痺しつつある。
このままではいけないと多くの人が感じている。しかし問題なのは、僕たち日本人がこの社会の瀬戸際の事態に対して、
有効な解決策、ビジョンを持っていないことではないだろうか。

今、僕たちは何をすればいいのだろうか?
バブル崩壊以降、次々と起きる問題に対し、その都度なんとか対処してきた。
それは風呂桶に空いた穴を塞ぐようなものであり、対症療法的なものでしかなかった。
日本人は問題の核心の部分に手をつけられずにいる。財政問題が危機的状況にあっても消費税を上げることすらできない。
少子高齢化に突入しているのに、少子化の流れを止める対策をとれない。

この国には舵が存在してしない。政治も機能しておらず、自治体も事なかれ主義で、しかもどこも財政難に陥っている。
教育は戦後に作られた制度を使い続けたまま。医療は金儲け主義がはびこり、高額な医療費負担が国民を圧迫している。

教育観のパラダイムチェンジが求められている。

教育という言葉を分析してみる。 まず代表的なのは義務教育。 小学校と中学校における教育。 それから高等教育としての高校と大学がある。 専門教育として専門学校や企業研修がある。 幼児教育として幼稚園、保育所がある。 生涯学習という言葉もある。 教育問題が取沙汰されるとき、小学校から大学までだ。 いわゆる学歴社会の範囲内にある教育。 教育問題の難しさの背景には、2つのことがある。 1つは日本国民ほぼ全員が子供時代を義務教育を受けて育っていること。 もう1つは教育を語るときに、大人(社会人)と子供(学生)という観念が強固に働くこと。 日本人の大人たちは自分がすでに教育から「卒業」した大人であり、社会人であると自らを認識している。 教育からはすでに巣立った「大人」なのだ。 そういう「外部者の視点」で教育問題を考えてしまう。 教育について「当事者」としての視点で考えることができない。 自分が子供時代に退屈な勉強ばかりをやらされて育ったので、 「勉強は退屈で辛いもの」という固定観念をどうしても抜け出せない。 日本において社会とは厳しく忍耐の要するものとされている。 我慢ができなければ人間関係にも支障をきたすし、満足な仕事ができない。 若いあいだは、勉強やスポーツで忍耐と協調性を学び、社会を「生き抜く力」を養うことが大事とされる。 厳しい努力があるからこそ、目標を実現したときに大きな達成感、充実感が得られ、自分自身にも自信がついてくる。 日本の大人にとっての教育観とその辺りのところで止まっている。 もしかしたら「面白い学び」があるかもしれないなど、夢にも考えない。 楽しい勉強など甘えでしかないと考える。 でも勉強とは、本質的にとても面白く、楽しいもの。 大人の価値観が変わらないかぎり、子供達の教育環境は決して変わらないだろう。 まずは大人の教育観を変えていく必要がある。 最高にワクワクする大人のための学習システムを作ろうしている。 教育観のパラダイムチェンジが求められている。
“もしかしたら「面白い学び」があるかもしれないなど、夢にも考えない。

面白い教育は存在するのに、誰もそれを広めていない。

なぜボトルネックとしての教育に気づくことができたのか。 それは俺の中に「社会への信頼」があったから。 俺が学校や人間関係に対して違和感を抱きつつも、そこからドロップアウトせずにいられたのは、 俺自身のなかに人間や社会への信頼があったから。 社会への信頼が土台から崩れたのが「教育は進歩しない」という衝撃の事実だった。 世の中には正しい力学が働いていて、非効率なところ、本質的におかしいものは、 誰かが改善し、世の中は全体としてより効率的なものになっていくと思っていた。 日々事件や問題は起きていても、結局のところはそこに向かっていくのだろうと。 教育はまったく進歩しない、という厳然たる事実は、俺に社会への信頼、人間への信頼を失わせた。 面白い教育は存在するのに、誰もそれを広めていない。 この事実に気づいたとき、僕のなかで世界が崩れた。根本から。 そして同時に自分の中に眠る可能性に気づくこととなった。

新たな教育システムを受け入れることができない人たちが、社会の中軸を握っている。 圧倒的多数の組織力によって、社会全体を運営している。 数々の大企業、官庁、政治・・。 そのようなの大規模組織の運営原理と、潜在意識型学習の思考原理とは、まったく異質なものだ。 前者は組織主義の世界であり、後者は個人主義の世界といえる。

ボトルネックとしての教育制度は、海辺のカフカで出てくる「重たい石」のようなもの。 誰にでも動かせるものではない。動かす資格のある人間じゃないと動かせない。 ナカタさんのように、愚直な人間。