治安の悪化について

悪とは何か

凶悪な赤ちゃんは存在しない。
すべての赤ちゃんは純粋無垢だ。
どんなに悪どい人間がいたとしても、生まれたときにはみんな純真無垢な赤ん坊。
そこに真実があると思う。
すべては、生まれた後の環境要因で決まる。

悪というものが、どこから生まれるのか。
悪とは何か、不親切とは何か、怠惰とは何か。
心の病とは何か、精神病とは何か。
犯罪とは何か、憎しみとは何か。
虐待とは何か、いじめとは何か。
経済とは何か、会社とは何か。
個人とは何か、人間関係とは何か。

そういうことをずっと考えてきた。
いろんなことを考えていたけど、求めていた答えはたった一つだった気がする。
いろんな物事が世の中にはあるけど、その背後には、「光」があるのか?
それが知りたかった。

あくまで僕の考えという前提だけど、僕はどんなものの裏側にも光があることを確信できたような気がする。
純粋な闇というものはこの宇宙には存在しない。
(そんなものがもしあれば、それはブラックホールだけだろう)
本当に闇に支配された心など、絶対に存在しないと僕には感じられる。
たとえどんな凶悪犯罪があったとしても、その裏側には長く光を求めてあがいたプロセスがあり、苦しみ抜いた末の結末だと感じられてならない。
今現在頭がおかしいように見える人だって、そこに至るまでのプロセスをじっと見れば、そうじゃなかった時期があるはずだ。
超えてしまって、向こう側に行ってしまったとしても、彼らにも、小学生のとき、幼稚園があり、無邪気に笑っていた時期があるはずだ。
(被害者の立場の話は、ここでは置いておく)

今の日本では、一般的に認知されたステータス路線を外れてしまうと、どこまでも孤独な状況に追い込まれる。
いったんその路線を踏み外すと、周りに当たり前に満ちていた光は、途端に遮断され、目の前が真っ暗になる。
そうなると孤独になってしまう。行く先が見えなくなり、寄って頼るべき場所がなくなる。
戻る場所、存在を許される場所がなくなる。

“凶悪な赤ちゃんは存在しない。 すべては、生まれた後の環境要因で決まる。”

個人テロの時代

個人テロは、世の中に訴える動機で行われるもの。 秋葉原殺人。 人々の問題意識に訴えるものがあり、多くの人のあいだで議論を巻き起こす。 それに対し、心根が腐ったことによる凶行がある。 金欲しさ、暴行目当てなどで、女性を拉致し、殺してしまうような犯行。 そこには、「社会の中での自分」は存在しない。 日常生活の段階で、すでに周囲から白い目で見続けられ、自分でもそう自己認識する。 そこには他人の目を気にしたりする精神がない。自分さえよければいい、という原始的本能。 個人テロを起こすのは、それまで「普通に働いていた」ような人たち。 普通の生活のなかで、なんとか適応しようともがいたけど、どうしても「普通」が得られなかった人たち。

個別の事件だけを見ていても絶対に解決しません。
なぜそのような事件が起きたのかを、社会的レベルで考えていかないと、なんの解決にもつながらない。
若者たちが集団で無茶をするのはなぜでしょう?
これは戦後からの時代の中で濃縮されてきた社会事情に原因があります。
親の代まで遡って考えないと、本質にはたどり着けない。
葛藤から悪の扉を開く若者はなぜ無茶をするのでしょう?
これも同じです。
戦後からの長い歴史のなかで徐々に蓄積されたものが一気に噴出してきたのです。
原因は社会生活するごく一般的な人たちの生活態度にある、と僕は感じています。
つまり僕も含めて全員に責任があると思っています。なぜか?
直接的に書きにくいので、少しずらして書きます。 国債の問題と同じことです。国と地方の借金が1000兆円を超えるといいます。
これはとんでもない大問題です。ですが一体誰の責任なのでしょう。
国ですか?自治体ですか?
違います。やはりこれも全員の責任です。
日本人は、本来ひとりひとりが負うべき不安や葛藤を、放棄して生きてきました。
仕事や家庭の問題ということではありません。
個人としての問題です。
人生観や価値観の問題です。

これから先、日本という国家、社会のたがが外れたとき、多くの引きこもりの怒りが爆発する。
現在は社会的な締め付けが強力なので、蓋をする形になっている。
でも彼らの心の中ではどんどん不安や怒りが湧き出している。
蓋をすれば当然圧縮されていく。
この国が財政破綻をしたり、高齢化が進み、現在のような常識的価値観が崩壊したとき、
彼らは青春を失ったことに対する怒りを、社会にぶつける。
放火などによって。今ならまだ間に合うかもしれない。
でも彼らが40歳、50歳になってしまうと、もはや後戻りできない可能性が高い。

善悪の構造的二極化

構造的に、犯罪(凶悪犯罪含む)を必要とする社会になっているのではあるまいか?
一部の人たちに不幸が押し付けられて成立する社会。

善だけを求めてしまうと、悪というものが誕生します。
正しいことばかりを求めると、どこか別の場所に間違いが生まれます。
日本人の多くは善人であることや、正解であることを無批判に求めすぎてしまった。
その結果どこかに悪や間違いが生まれることを考えずに生きてきました。
そのツケが今、自分たちに回りめぐって跳ね返ってきているとしか思えないのです。
善や悪、正解や誤り、かっこいいやダサい、綺麗や汚い。
そんな二極的な価値観で生きると物事の本質はどんどん遠ざかっていきます。

しかし現状の社会では、そういう人ほど高い地位に上がるシステムになっています。
葛藤を抱かずに、デジタルな欲望に従うほうが行動力があるからです。
子供たちが無茶をするのは、大人の側に自然な感情の流れがないから。
大人たちがいつも何かを抑圧して、自分の本心を表に出さずに諦めて生きていることが、子供たちをどんどん不安にしていくのです。
不安は連鎖していき、やがて怒りに変わり、最後は憎しみに変わります。
そうなると、誰かが悪の扉を開くことになります。
それは構造的に必然です。

悪とは、「逃げ場のない人間関係」が生み出すもの。
虐待をする主婦を見ていてそう思った。
家族、学校、会社。
逃げ場のない、閉鎖的な空間で、悪は連鎖する。
心に深い傷が擦り込まれ、その刻まれた傷が悪の細胞を増殖させる。

2歳の子供を、熱湯の入ったベビーバスに入れて大やけどを負わせた虐待事件。
19歳の母親少女とその友人。
「泣き叫ぶ姿、面白かった」・・。
こういう事件を見ると、その母親に怒りは感じない。
怒りをぶつけるには、理解を超えている。
もはや心が壊れているとしか思えない。
この母親のような人間を生み出した日本社会に、怒りを感じる。
虐待された子供が、親になったとき虐待をする可能性が高いという。
愛情というものを知らない苦しさがそこにあるのだと思う。
こういう連鎖の状況を許している日本という国。
絶対におかしい。

悪には、自覚的な悪意と、無自覚な悪意、とがある。
最近よく起きる個人テロは、自覚的な悪意。
秋葉原通り魔事件とか。
無自覚な悪意とは、同情できない劣悪な犯罪。
金目的で女性を拉致し、集団レイプして無惨に殺すとか。
この両者の違いって、いったいどこにあるんだろう?
自覚的な悪意の場合、一見「ごく普通の人」に見えること。
無自覚な悪意は、見た瞬間に「やばそうな人間」「信頼できない人間」であることが伝わってくる。

“悪とは、背景の理解できないものに対する不安と恐怖の総体である。”

悪の正体を突き止めたいのか?それとも、悪をなくしたいのか? 僕は悪の正体はわからない。 でも悪をなくす方向性はわかっているつもりだ。 それはつまり、善悪という二極化をなくすこと。 人々が、善悪にとらわれず、あらゆる価値観を吸収するように努める社会。 その社会では、悪は成立しない。同時に善も成立しない。

人は誰でも他人の役に立ちたい、喜ばれたいと思っている。
無数の画像からのその気持ちが伝わってきた。
根っこはそこにある。
悪とは何か?
人の役に立ちたい、社会の役に立ちたい、他人から好かれたい、喜ばれたい。
その欲求が不本意な理由により満たされないこと、ではないか。悪とは。
本人の責任を超えたところで、運命が決まってしまっている。
そのもどかしさ、やるせなさが、悪の根っこにあるのではないか?

へどろの川

さっき洗い物をしていてふと思ったことを書く。
最近、凶悪犯罪と呼ばれる種類のものが増えている。
秋葉原の通り魔事件とか。
こういう犯罪って、「へどろの川」みたいなものなんじゃないか。
僕らは毎日普段の生活で洗い物をする。
お皿やコップ、鍋などを洗剤で洗う。
最近の洗剤は落ちがいい。
油汚れもサッとおち、軽くすすげばキュキュッとなる。
CMのとおりだ。
近所に川がある。
大阪市の住宅地を流れる川。
けっこう大きな川で、河川岸はマラソンコースになっている。
でもこの川、かなり臭い。
へどろが溜まっているのだろう。
夏場はメタンガスが泡となって噴きあがっている。
歩いていて思わず顔をしかめてしまう。
もっと奇麗な川だったら散歩とかジョギングを気持ちよく楽しめるのに、と思う。
しかし・・と思う。
この川を汚したのは誰だろうか?
当然、僕らひとりひとりの人間だ。市民だ。
毎日洗剤を使ったりして、排水が川に流れ込む。
市民だけじゃなく、工場からも流れ込んでいるだろう。
川が臭いのは、僕たちが便利な生活を選んだ結果だ。
みんなもそれがわかっているから、川を責めたりはしない。
「この川、臭くってほんとや~ねぇ・・」などと言う人間がいたら、
「お前も責任を負った一人だろが・・」と思うだろう。
自分のことを棚にあげて、周りのせいにするのは日本人の悪い癖だが、
それでもだいたいの人は川の汚れは自分たちの責任だとわかっている。

しかし・・。
秋葉原の事件とか、最近頻発する事件って、もしかしたら「川の汚れ」と同じようなことじゃないか・・と思うのだ。
僕らは便利な生活を享受して、日本をいう社会を生きている。
今、格差が広がって、生まれた環境によって最初から不幸になる人が間違いなく存在する。
「人間、努力次第でどんなことでも乗り越えられるもんさ・・」という従来の根性論は当てはまらない。
たとえば秋葉原の事件にしても、家庭環境に相当の歪みがあったと聞く。
厳格な両親のもと、幼い頃から自分の意思よりも親の意思を優先され、いい子でいるように強要される。
もし僕が彼とまったく同じ環境で育っていたら、はたして僕はその運命から逃れ得ただろうか?と思ってしまう。
もちろん、似たような境遇で育っても、しっかりと自分を貫いて立派に成長した人もいることだろう。
でも人間の運命は不思議なもので、不幸ばかりが続く人もきっと中にはいる。
そういう不幸中の不幸を背負ってしまった人が、とんでもない事件を起こす。
そういう構造が多いのではないだろうか。
僕たちは、事件を起こす人間を非難する。
とんでもないやつだ。あんなやつ、死刑にしろ。
そんな風に平気で罵る。
でもそんな態度はもしかしたら、「この川、臭くってほんとや~ねぇ」と言うのと同じことじゃないか。
へどろが溜まった川はたしかに臭い。凶悪事件はたしかに恐ろしい。
しかしそこに至るまでの背景をじっくり眺めたら、そこに僕たち日本人一人ひとりの責任はないだろうか。
川にへどろが溜まるのには相当な年月がかかる。
同じように、人間の精神が荒み、悪の道に進んでいくのにもまた相当な時間がかかる。
人間の心が壊れてしまって、とんでもない犯罪を犯すことで自分の欝憤を吐き出す。
そんな極限の状態にまで追いやれられる人間が、今確実に増えている。
実際、テレビなどでに出てくる若者たちには、「実際にはやらないけど、気持ちはよくわかる」と口にする人たちがかなりいる。
僕自身は、正直いって「人を傷つけたい」という気持ちを抱いたことがない。たぶん僕は幸せなのだろう。
だから凶悪犯罪を犯してしまった人間の心というものが、どんな構造になっているのか、わからない。
それは簡単にわかるようなものではないと思う。想像できるようなものではないと思う。
人を呪えば穴二つ、という言葉があるように、他人を憎むことはとても辛い。
そういう人間が増えている現代の日本社会。
このまま進んでいっていいのだろうか。

僕は思う。
奇麗な川、子供たちが安心して川遊びができるような、そんな川を取り戻せたら・・と思う。
それは決して不可能なことではない。
実際、へ泥の溜まった川が再生された例もある。
宇宙船地球号というテレビ番組で放送された「旧芝川再生プロジェクト」。
近所でも評判の悪かったどぶ川。
その芝川を再生するという取り組み。
その取り組みでもっとも大きな力を発揮したのは、住民の力だった。
えひめAIという名前の環境浄化液がある。
ヨーグルトや納豆を原料で作った液体。
この液体には、汚染物質を浄化する力がある。
プロジェクトではこのえひめAIを各家庭に配布し、
普段の生活で使ってもらうことにした。
台所などの水回りにふりかけることで、悪臭が減るなどの効果がある。
その結果、芝川に流れ込む生活水が劇的に改善された。
濁っていた以前の排水ではなく、透明な排水が流れんだ。
住民たちの協力で、芝川はだんだん奇麗な川になり、子供たちが水辺で遊ぶことができるようになった。


人間の再生も同じことだと思う。
川が汚いと一方的に避難しているあいだは、生活排水がどんどん流れ込んでいる。
僕たちが犯罪者を非難するほど、犯罪予備軍といえる人たちはますます心理的に追いつめられていく。
そして事件が起きる。
誰かが傷つけられ、メディアが騒ぎてて、僕たちはニュースを見て「またか・・いったい世の中どうなるんだ」と嘆く。
こういう循環をいつまでも繰り返しているばかりでは、川のへどろはますます溜まっていくしかない。
僕たち一人ひとりの日本人が、川を汚しているのは自分にも責任がある、と気付く必要がある。
構造的に、誰かが追いつめられるような社会を築いてきたのは、僕たち日本人なのだ。
政治のせい、役所のせい、アメリカのせい・・。
責任を誰かに押し付けても解決はしない。
僕たちひとりひとりの人間が、川を奇麗にする方法を考えるしかない。
川の水がなぜ汚れてしまうのか、根本的に向き合っていくしかない。

“不幸中の不幸を背負ってしまった人が、とんでもない事件を起こす。

治安悪化の問題は、全員の責任。
といったところで何の解決にもならないのは百も承知です。
わからない人間には何を言っても決してわからない。
そういう人間はセコムでもアルソックでも好きに自分を守って生きていけばいい。
知ったことではありません。
治安悪化の問題は、処方箋はないと思います。
自分たちが先送りしたツケが返ってくるのです。
僕たちにできることは、教訓を未来に生かすことだけです。
善も悪もどちらにも偏ってはならないのです。
正解や間違いなどということは、ありえないのです。
アナログ型の価値観を育てていきましょう。
葛藤や不安をきちんと背負って生きていきましょう。
その姿勢が将来かならず治安を正常化させます。