「考える環境」ファーム(4)

全体から考える

①細部を一つずつ順に学ぶ
②全体像から学ぶ
従来の学校教育では、①の方法が主流だった。
歴史を学ぶとき、生物を学ぶとき、英語を学ぶとき、全体像という概念は重視されず、
ひたすら年号を覚えたり、細胞の名称を覚えたり、英単語を暗記したりした。
①の方法には、大きな問題がある。
それは人間本来の想像力のあり方に反すること。
人間は本来、物事を全体の枠組みから捉える知性を持っている。
まず全体的にどういうことかを把握しようとする。

細部から考える教育システムが、日本人の思考様式に与えた影響は計り知れない。
良かった点をまずあげると、戦後の高度成長を可能にしたのは①の学校教育のおかげだった。
高度成長の右肩上がりの時代には、会社でバリバリ働く、いわば働き蜂、仕事人間のほうが必要だった。
欧米の商品を模倣し、キャッチアップすることで世界経済の中で飛躍的進歩を成し遂げた。
偏差値を重視し、とにかく頑張れば報われるという方針が時代の流れに合っていた。

バブル崩壊後、成長神話が崩れ、日本はビジョンを失ってしまった。
先送りを続け、問題を根本的に改善できない状況が続いている。
このような混迷の時代においては、①の教育は適さない。
今求められるのは、自分の頭で考える人間だ。
今求められるのは②の教育への転換だ。

つながりを理解するという学び方。
すべては全体像をつかむための材料。

以心伝心の情報ネットワークの基本。
さまざまな価値ある情報を一箇所に集めて、みんなで吸い上げる。
吸い上げた情報をもとに、実現可能なライフスタイルを模索する。

理解してほしいのはここ。
教育だけ、介護だけ、医療だけ、経済だけ、という個別の話ではない。
価値ある情報を一か所に集めることによって、初めて見えてくるものがある。

記憶の幹

知性の大樹を繁らせる

「記憶の幹」を育てる。
記憶の幹は、関心を維持するための「基本情報」といっていい。
基本情報を持っていれば、それは「自分とは無縁」でなくなる。

記憶は熟成する。
「熟成」という言葉にはインパクトがある。
価値観や世界観の形成も、すべて熟成の結果。
植物の成長のように、自覚できないスピードでゆっくり熟成されていく。
人は心根という植物を体内に有している。ニューロンという植物。

有機的知識。
心根が自然と広がっていく。
詰め込み教育の対極にある知識。

一度でも「記憶の幹」なんて考え方を意識したことがあるだろうか?
おそらくないと思う。 なぜなら学校教育では教わらないから。
どうして学校で教えないかというと、先生たちも知らないから。
大学教授だってそんなこと考えもしないだろう。
難関資格の専門校でも教えない。
「記憶の幹」に該当する考え方自体が、教育界に存在しない。

学校で学んだ歴史についての記憶、今も残っているだろうか? 大森貝塚だとか、中臣鎌足だとか、年号の語呂合わせとか、
そんなジャンク知識が微かに残っているだけ。 悩まずにいられない。
何も残らない教育って一体何なのだろう?

記憶の幹としての「基本情報」を大量に吸い上げる。
効率よく、あらゆる世界に対しての関心の土台を作る。
それによって、さらに知的好奇心が増すことは疑いようのないことだ。

心根の育ち具合が、 吸い上げ能力を決める。

多くの若者が社会に対して無関心・無感動でいるのは、
自分たちが属する世界への基本的な理解が不足しているため。
不足というよりも、枯渇といったほうが適切かもしれない。
基本的な理解が欠けているというのは、その世界から排除されていることに等しい。
関心を抱くための、基本的なリソースを与えれていない。
自分には関係ない、と無関心な状態に陥るのは当たり前のこと。

樹形図をご存じだろうか。
幹から枝分かれしていく図。
記憶の幹は、樹形図のイメージ。
物事には階層性がある。
たとえばお酒にはいろんな種類がある。
ビール、ワイン、ウィスキー、日本酒。さらには焼酎、泡盛、ウォッカ、テキーラ…。
細分化すると、ビールであれば発泡酒、第3のビール、メーカーによってキリン、アサヒ、サッポロ、サントリー。
世界のビールや地ビールを含めれば、きりがない。
このようにある情報は、無数の階層に枝分かれていく。
何が言いたいのかというと、何かを学ぶときには、まず階層構造を理解することが大事ということ。
階層構造を把握すれば、全体像がつかめる。
記憶の幹とは、階層構造。

階層構造としての太い幹や枝がつかめれば、そこから新たな成長がうまれる。
太い幹や枝から、新たに想像の芽が伸びていく。
枝が伸び、豊かな葉が茂り、やがて果実をつけ、地面に種を落とす。
心根(まごころ)から養分を吸収し、記憶の幹が育ち、精神活動としての光合成が行われ、
社会に対して豊かな果実をもたらし、次の時代に繋げるための種を落とす。
それが人としての自然な知性のあり方だと思う。

歴史であれば、まず映像素材を見ることによって、その時代の雰囲気をつかむ。
明治維新であれば、NHKの「そのとき歴史は動いた」を見たり、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読む。 時代背景を学ぶ。 そのためには、映像を見たり、時代小説を読むのが一番早い。
そうすることで記憶の幹が生まれる。
坂本竜馬、西郷隆盛、勝海舟、桂小五郎、高杉晋作、中岡慎太郎、薩長同盟、大政奉還、
新撰組、桜田門外の変、池田屋事件、ペリー来航、上士と郷士という身分制度、士農工商の雰囲気、当時の人々の生活の匂い。
様々な記憶の幹がイメージとして、自分の中で像を結んでいく。
想像力とは、もともと勝手に育っていくもの。
人は自分が興味あることなら、努力などせずとも勝手にイメージを膨らませていく。
自分の好きな芸能人や映画については、のめりこんで吸収する。キムタクの印象も、ジブリ映画の印象も、勝手にどんどん膨らんでいく。
それと同じこと。学ぶことにおいては、好奇心が非常に大事である。

構造思考

論理的思考から構造思考へ。
"ロジック"から"ストラクチャー"へ。

「内容」よりも、「構造」をつかむ。

パースペクティブつまり視点を切り換えて、物事を眺める。
あらゆる角度から、多面的に検証する。
そうすることで、バランスの取れた物の見方が養われる。

構造思考は、印象を膨らませるメソッド。

「構造思考のすすめ」
構造思考とは、物事を考えるときに、まず全体構造に意識を合わせる考え方である。
具体的に説明したい。

構造思考を考えるとき、お店を例にするとイメージがつかみやすい。
たとえばコンビニのローソン。(別にファミマでもセブンイレブンでもいい。)
コンビニエンスストアは日本人であればほとんどの人が利用したことがあると思う。
構造思考をする場面だが、僕の場合、お店に入ったときなどに良く行う。
コンビニエンスストアは、多種多様な要素が組み合わさって成り立っている。
その要素をなるべく多く自分の頭の中で想像し、組み上げる。
それが構造思考。構造思考とはいわば思考ゲームのようなものだ。

イメージの材料として使うのは、自分がそれまでに得てきた知識である。
たとえばコンビニのレジでは、POSシステムが導入されている。
レジで精算するとき、店員は年齢、性別など簡単な顧客データを打ち込んでいる。
マーケティングデータとして利用し、商品開発に役立てるためだ。
常に売れ筋の商品を揃えるために、リアルタイムの分析が要求されているのだ。
ある商品の売れ行きが良いと、すぐに増産がなされ、即座に店舗に並ぶ。
顧客の移り気なニーズを常に把握し、即座に対応できる体制を整えている。

またローソンでは、東大の研究所の協力のもとで、店舗の省エネ化を進めている。
店舗で消費する電力を制御する装置を開発し、店舗あたりの消費電力を最適化する試みだ。
店舗にはコンピュータ制御の装置が設置され、気温や時間帯などの変化によって、冷暖房や照明機器の調整を自動で行う。
まだ開発段階だが、全国の店舗に導入すれば、年間50億円ほどの経費削減になるという。

また陳列された商品を見れば、つくった人たちの努力が見えてくる。
カップラーメンの棚には、数年前からこだわり志向の高価格品がずいぶん増えた。
老舗のラーメン店のネーミングを冠した商品や、ウェブ企画による投票をもとに開発された商品など。
価格もカップヌードルやUFOなどの定番品に比べ、2倍前後の値がつけられている。
飲料棚でも各メーカーの競争は熾烈だ。
特にお茶は中身で差別化が難しいので、健康志向やボトルの形を工夫したり客に訴求する。

最近はPB商品(プライベート・ブランド)も増えてきた。
メーカーから仕入れるのではなく、小売りが独自に開発した商品。
原価を抑えることができ、販売価格を安くできるため、不況で値段に厳しくなっている消費者に人気だ。
しかしこれらのPB商品も、小売が行うのは企画までで、実際の製造は大手メーカーに委託しているという。
メーカーからしても、単価は安くとも、製造した製品すべてを小売りに買い取ってもらえるため、在庫リスクを抱えずに済むメリットがある。

以上、今思いつくことをいくつか並べてみた。
想起内容は文章で書くと長々としたものになるが、想像では一瞬で済む。
構造を思い浮かべるだけでいい。
構造は多重的であり、画一的なイメージはない。
頭の中で行う想像は、曖昧で、漠然としたものだ。
あくまで印象を想起できればいい。細かく思い浮かべる必要はない。
これはこういう風に成り立っている、というイメージを頭のなかで組み上げるだけでいい。

上述した以外にも、無数の要素があるだろう。
学べば学ぶほど、それらの要素は増える。
構造を想起するほど、自分の知恵となる。
さまざまな工夫は、コンビニ以外でも応用できる。
自分が関わっている仕事にも、役立つ考え、ヒントになるアイデアが見つかるはずだ。
構造思考を磨くと、発想力が養われ、企画する力が高まる。
また、構造思考の訓練を積むと、理解力が格段に高まる。
枠組みで考える癖がつくので、細部に意識をとらわれず本質を考えるようになる。

ただ構造思考は慣れるまで少し大変かもしれない。
普通そんな風な想像の仕方はしないから。
でも一旦慣れてしまえば、なんということはない。楽なものである。
構造思考は、いつでもどこでも手軽に行える思考訓練である。
道具も何もいらない。ただ脳みそが働いていればいい。
この思考法を身につければ、手持無沙汰な時間がなくなる。
どんな場所でも、何かしら学ぶことが見つかる。

「感覚でアウトプット」=表現するまでにとどまり、構造を変えることはできない。
「論理でアウトプット」=構造を変革することが可能。

「うん、わかる」という手ごたえ

言葉による思考を超える。
「チャンク」で考える癖をつける。
「うんわかる!」という手ごたえは、チャンク思考。
言葉による思考を離れて、深い領域で実りある思考がしたい。

頭の回転を研ぎ澄ますには、「わかる!」という感覚を研ぎ澄ますことが大事。
会計士試験の勉強をしていた頃、一度で「うん、わかる!」という手ごたえを得るように努めていた。
その結果、頭の回転が速くなり、脳の血流が増して頭皮がムズムズしていた。
あの感覚を磨きたい。
マインドビッツの想起でも、「うん、わかる!」という手ごたえを必ず一度で得るようにする。
構造思考が欠かせない。
音楽を聴いたときに、構造的に聴こえる状態。
LATIN JAZZを聞くときの、色が立体的に聴こえる状態。
心の中がしーんとなり、研ぎ澄まされてる。
気づいたら「ふーっ」と長い息を吐いている。
集中に入り込むとき、呼吸を忘れて自然とそうなる。
目に軽く見開きながら、息を吐いている、ごく自然に。

認識の世界に没入すると、言葉は自然に湧き上がってくる。
頭であれこれ考えるよりも、自動的に言葉に変換される。
認識の世界に入っていないとき、頭のなかであれこれ考え事をする。
その際には、思考が独り言になっている。ぶつぶつと独り言を言いながら考えている。
思考が深いところに達していないので、いくら考えても堂々巡りでしかない。
認識の世界に入ると、言語的な思考は必要でなくなる。
「うんそうだ」という瞬間的反応で済む。

心が疲れる原因。
潜在意識レベルでの意識の揺れが絶えず続くこと。
ぐったりと疲れてしまう。
「うん、わかる」という認識世界に没頭していないとき、心はいつも迷いの中にある。
不安、焦り、怒りに心が支配されている。
潜在意識で激しく消耗している。
認識世界に没頭すると、潜在意識レベルで土台・骨組みがしっかりと構造化される。
少々のことでは心が揺れ動かなくなる。その分疲れを感じなくなる。
ずっと集中しているように見えても、精神的葛藤や不安がない分、思考作業そのものの疲労は小さい。
また脳内ホルモンのレベルでも、エンドルフィンやドーパミン、セロトニン優位の状態となり、疲れにくい。

自分の言葉を持つ

基礎学力とは、自分の言葉で説明する力。
感性を総動員して観察し、何かを感じ取り、自分なりに理解する。
学校教育は、本来そういう力を養う場所であるべき。
北欧などでは、そういう「考える力」を養う教育が実践されている。
その結果、今現在の社会的合理性に優れた北欧社会がある。
日本はというと、ゆとり教育によってそんな方向に傾きかけたが、
結局は学力テストの結果が下がったという理由で元に戻ってしまった。
日本でなされる教育は、「答えの押し付け」であり、それは「考える力を奪う教育」だ。
日本の教育制度を抜本的に変革するためには、小手先の方法では無理だ。
大人の側の教育観が変わらない限り、学校教育が変わることはない。
逆に言うと、大人の考え方が変われば、学校教育も変わるということ。

以心伝心が目指すのは、そういうルートでの教育改革である。
まずは僕たち大人が、「自分たちの言葉を持つ」ようになること。
そういう人が増えていけば、学校教育に少なからず影響をもたらす。
遠回りのようだが、それ以外に学校教育が変わる道が見えない。

「書き出し 」の習慣。
「自分の言葉で説明できる」ことが、ファームでの学びの目的地。
借り物の意見でなく、 稚拙でいいから自分の言葉で表現する。
知らないのであれば、堂々と知らないと言える。
理解できていないのであれば、理解できていないと素直に言える。
その姿勢を持つことが、本物の頭の良さに繋がると思う。
この姿勢のことを以心伝心では「書き出し」と呼んでもいいかも・・と思った。

新しいタイプのリーダーになろう。
世界のさまざまなことについて、自分の言葉で説明できること。
それが新しいリーダーになる資格。
新しいリーダーは、互いにビジョンを共有して社会を変革する。
今までのように、自分の専門分野だけに精通し、自分たちの利権拡大ばかりを目指すのではない。
本当に豊かな世の中とはいかなるものか?
そのことを常に意識し、自分の専門以外のことについて幅広い関心を持って生きる。
そういうリーダーが増えてこそ、本当に豊かな社会が実現する。

「他人事から自分事へ」
新しい学びの特徴は、社会のあらゆることを、「自分に関係すること」として捉えること。
日本の社会問題の本質は、さまざまなことを「他人事として考えてしまう」日本人の悪い癖にある。
政治は政治家の仕事、医療は医者の仕事、教育は教師の仕事。

そこに「自分たちの関与」がまるでない。 問題が起きると、簡単に批判し、責任を咎める。
結果、現状として、改善が目先の対症療法に偏ってしまっている。
一人ひとりがきちんと関心を向けず、思考を放棄することが、どれくらい大きな問題を抱えているか、日本人はわかっていない。
目指している新しい学びは、この点を徹底的に改善することを目的とする。
他人事としてではなく、自分にも関係あること、責任あることとして、社会のあらゆることを再認識できる仕組み。