幸せに見えない日本人

日本が抱えた問題

今の日本には個人の夢は無数にあるが、 社会全体で共有できる希望がない。

みんなが問題としていることは、ほんとうは問題ですらない。
それは起こるべくして起きている当然の事態にすぎない。
でも誰もそれを見つめようとしない。
なぜならそれが見えてしまってはとても生きづらくなってしまうからだ

“「集団になったときの日本人」の無責任さや無関心さ、人間的な弱さ。”

問題があるのであれば、それを解決するために行動すればいいだけのこと。ほとんどの人はそれをしないで、指をくわえてじっと状況を眺めているだけ。

日本人は、考え方、価値観が萎縮している。
自分の立場でしか物事を想像できない人が増えている。
そうなると、深く考えるという行為が、非常に難しくなる。
考え過ぎになってしまうから。
原罪として組み込まれているリスクは、細切れにされ、
組み合わされ、パッケージにされ、もはや原型をとどめない。
だからリスクが存在していても、気づくことができないし、
たとえ気づけても有効に対処できない。

みんなが問題としていることは、ほんとうは問題ですらない。

誰かが犯罪を犯さざるをえない社会。
誰かがいじめに遭わざるをえない社会。
最初からリスクが組み込まれている。
あとは「くじ引き」みたいなもん。 「貧乏くじ」を引いた人間は、生まれながらにレールが決まっている。
サブプライム問題は、リスクを細切れにし、ぐちゃぐちゃに組み合わせ、
リスクがどこにあるのか、もはや誰にも判別できないレベルにまでしてしまったことが原因だった。
それと同じことが、日本社会で起きている。 リスクの社会化。

多くの日本人は、自らを顧みながら物事を想像することができない。

「社会人」とか、「働いているから」とか、「常識をわきまえている」といった理由で、 自分たちは立派で模範的な大人だと、微塵の疑いもなく思ってる。
(この微塵もなく、というところがクセモノ、強固に固まって柔軟性に欠ける)

煙草の匂いというのは、吸っている本人には気付けない。
社会がもし喫煙者ばかりだったら、吸わない人はどう感じるだろうか。
僕が今まで感じてきた違和感はそんな感じ。
「普通の人」たちは、「普通」という状態が発する匂いに気付けない。 「普通」「当たりまえ」というものが内包した危険に気付けない。

共感喪失という社会土壌の崩壊。

想像力の限界=「自分自身の生活」との関連性の欠如。
物事の成り立ちを考えたら、自分にも一人の人間、社会人として責任があることがわかるはず。
でも、ほとんどの人には、その自覚がない。頭が良いとされる人たちにも、その自覚がない。
自分の生活のことは省みず、他ばかりに責任を押し付ける。
世の中が変わるはずがない。

“「社会制度を超えた罪」がある。 法律では規制できない罪。 「世の中を公平に理解する努力をしない」という、社会の一員としての罪。”

問題意識の希薄な人は、「何が問題なのか」という姿勢が弱い。 一見楽観的で悪くない姿勢のようだが、楽観的と無責任は違う。
問題意識の欠如は、最終的には無責任を意味する。 何に対する責任かというと、世の中全体に対する責任が喪失だ。
社会全体への想像力がどんどん小さく、弱くなる。

目先のこと、自分の身の周りのことに、日常の想像力が過度に集まってしまう。 その結果、自分に直接関係のない世の中的なことなどどうでもいい、ということになる。
情報を簡単に鵜呑みにして、ステレオタイプ型の人がどんどん増えていく結果になる。 そういう人が増えるのと比例して、社会問題や社会不安もどんどん大きくなる。

何かを考える(批判する)とき、そこに「自分」が含まれていない。

もっとも手に負えないのは、「自分には何の責任もない」と思っている日本人の集団的無責任さ。 無責任というよりも、無自覚といってもいい。想像力の限界といってもいい。

何かを考える(批判する)とき、そこに「自分」が含まれていない。 自己を省みながら物事を想像することが出来ない。
だから他人の問題として、劇やドラマを観るようにして、物事を語り、物事を考える。 自分には何の落ち度も、責任も、関わりもないと、本気で信じている。それほど手に負えないことはない。
そして国民の圧倒的多数派が、そちらの側に属している。
日本社会を変えることは簡単ではない。

総論賛成、各論反対

大きな話では気持ち良さそうに意気揚々と話しているのに、話の内容が、自分達の利害とか、 生活に直接関係するようなことに及ぶと、途端に及び腰になる。

そして怒り出す。 「君にそんなこと言われる筋合いはないよ!」「人の気持ちがわからない人だね」等々・・・
そういう姿を見るにつれ、次第に「総論を話し合うこと」に意味はないと思えてきた。
大きな話だけじゃなく、その話を細分化して、各論について考えられる人じゃないと、 世の中を変える人にはなれないと思うようになった。

“日本の大人は、自己正当化の習慣を持ち続けて大人になった人たち”

自分を徹底的に正当化する。

それが日本社会で一人前になることの真実。
いつも周囲と自分の距離を考え、努力し、バランスを取る。
その結果、自分はこれでいいというラインができてくる。
安全圏。 自分を正当化することを続けていくと、自分の意見が固まってくる。
それは自分の存在を正当化するための考えだ。
そんな正当化のための理屈をお互いに共有しあって、
保護しあって大人社会の一員、社会人となっている。

自分の正当化の理屈を崩されると、無残なほど弱い。
正当化できているあいだは、自信に溢れている。
余計なことを考えなくて済む。
日本の大人たちは、自己正当化の習慣を持ち続けて大人になった人たち。
そこに問題意識の成熟はありえない。