原石を定義する。

原石とは、問題意識。

原石とは、問題意識。
何も問題なのか、本質を見抜く力。
黄金に純度があるように、問題意識にも純度がある。
問題意識の純度=オリジナリティ。
自分の眼差しによる思考の純度の高さのこと。
簡単には知的好奇心を満足させられない。
問題意識において妥協がない。
知識を鵜呑みにすることを極端に嫌う性質。
知識に染まっていない人間。
問題意識が豊富なゆえに、知識が頭の中になかなか入っていかない。
知識量なんて最初はどうでもいい。
そういう人の中にはオリジナリティに溢れた問題意識がある。

問題意識とは「深さ」です。
含蓄のある意見を耳にすると、人は自然に「深いね・・。」という言葉が口から出ます。
とても微妙なニュアンスの世界ですが、誰でも感じることができるはず。
根っこは地中の中にあります。
目には見えないけど、そこから養分を吸収し、水を吸い上げ、幹を伝って枝葉に行き渡ります。
問題意識は、深く掘り下げる行為です。
時間をかけて形成されていく感覚です。
問題意識の持つ力は、何が問題なのか、本質を感受する力です。

問題意識の深さは、「可能性を読み取る力」に影響する。
つまり、ビジョンを描く力と直結する。

簡単に納得しない心がある。
頭の中で思考が縦横無尽に繋がりあっている。
テレビで見た情報と、本で読む情報とが、分離されていない。
情報がカオスのままに一体化して、大きな世界観に育っている。
自分の眼差しで情報を咀嚼する。
他人事として安易に捉えていない。
みんなが普通まったく考えもしないところで、考え続ける。

問題意識のオリジナリティは、他人事として適当に片付けない思考から生まれる。
なぜ戦争が起きるのだろう?
なぜ環境が悪化するのだろう?
お金ってなんだろう?
犯罪ってなんだろう?
そういうことを自分の眼差しで咀嚼できていること。
自分の頭で考えると、心の深い領域で繋がる。
どういう構造でそれらの問題が生じているのか、背景を理解できる。

問題意識は目には見えないけれど、ニューロンレベルでは物理的に構築されているはず。 それまでの人生において、日々どんな眼差しで世の中を見つめてきたのか。
ニューロンのつながりは、その思考の蓄積をしっかり示しているはず。
失われた10年といわれた期間、僕が16歳から25歳までのあいだ、嫌でも問題意識を深めることになった。
日本の大人社会が延々と繰り返す、対症療法、問題の先送り、責任転嫁、吊るし上げ。
そういったものをニュースを通じて、毎日浴びるように見せられ続けた。
問題が起きた起きたと騒ぐばかりで、一向に進まない根本的解決。
日本社会について、日本の大人について、考えざるをえなかった。
僕が今現在、独自の考え方ができるのは、この期間に養われた問題意識が土台にある。

素頭の良さ

素頭の良さとは、洞察力。

本当の頭の良さ
自分の考えについて、それが借り物の考えなのか、
それとも自分自身の考えなのか、その判断を冷徹に行えること。
頭の悪い人間は、どこかで仕入れた考えを自分の考えだと信じ込む。

素頭が良いとは、自分がどこまでわかっていて、どこからわかっていないのかを、自分で把握できること。
頭が良くない人は、自分が何がわかっていないのか、自分で把握できていない。

頭の悪い人間は、「自分を基準」にしてしか想像力を働かせることができない。
他人がどう考えるのか、どう感じているか、を想像する習慣がない。

“自分の考えについて、それが借り物の考えなのか、 それとも自分自身の考えなのか、その判断を冷徹に行えること。”

新しいリーダーの原石

介護、教育、医療、まちづくり、政治家、金融、小売、農業、ものづくり。
ビジョンを共有し合える、脱お山の大将型リーダー。
そういう人が一人誕生することの社会的影響力。経済効果、若者に対する影響。

一番伸びしろがあるのは、普通の人たちの中にいる「原石」。
まともな心を持っている、想像力豊かな、普通の人。
そういう人を掘り起こし、ファームで成長してもらい、新しいリーダになってもらう。

次の時代の普通を目指せる人

「特別な存在」を目指さない。

「本当に変えたいという気持ちがあるのかどうか」。
それはつまり、「世の中を変える」ということが、その人にとってどういうことなのか。
エコとかロハスとか、僕には興味がない。変えた先のビジョンがないから。
本当に変えたいっていう強い信念を感じることができないから。
ムーブメントとか、ファッションとか、本当にどうでもいい。
そういう奴らは僕に近づいて来ないで欲しい。

裸一貫の自分でいられる。
どこにも属さず、他人から賞賛されなくても、自分の強さを確信できること。
そういう人間は、群れる必要がない。個として強く存在できる。

人生のハードルバーの高さ。
現状の能力よりも、その高さを見るべき。

数人で道を歩くとき、道を塞がないように後ろを独りで歩く人。
仲間でいるとつい夢中になって、横一列になって道を塞ぐ人たちがいる。
話に夢中になって、通行の邪魔になるという気配りができない。
そういうときに一歩引いて、一人で後ろを歩ける人。

集団で話をしているとき、誰かが空気を読めない発言をしたとする。
そのとき顔を見合わせて小馬鹿にしたような態度をとる人は、世の中をなめている。
こういうときに、周囲に迎合せず、凛とした姿勢を崩さない人。

僕がその証明。
格差社会が生み出した、新しいタイプの人材。
共有型知性をもつ人間。

僕が求めている仲間たちのターゲットがはっきりしてきた。
無条件の幸せの記憶を持つがゆえに、日本社会の肥大化した常識世界に苦しむ。
こういう人であれば、きっと学習システムの意味を理解してくれるはずだ。

自分の眼差し、自分の世界観を持つ人。

世の中のあらゆることを理解したいと望む人

「岩を転がし終えたところが、お前たちそれぞれの生きるべき場所だ。   高い場所に行けば行くほど、世界を遠くまで見わたすことができる。    どこまで行くかはお前たちの自由だって」
「じゅうぶん暮らしていける。そんなに遠くまで世界が見れなくてもかまわない」
「今では誰よりも遠くの世界を見渡すことができた。 そこが彼の住む場所だった。草も生えないし、鳥も飛ばないような場所だった。 水分といえば氷と霜を舐めるしかなかったし、食べ物といえば、苔をかじるしかなかった。 でも後悔はしなかった。彼には世界を見渡すことができたからだ…。」
「何かを本当に知りたいと思ったら、人はそれに応じた代価を支払わなくてはならないということ」
村上春樹 アフターダークより

僕は、日本人を、日本社会を、理解することを諦めていない。
だからいつまでも不安や恐怖を感じ続ける。

自分を納得させられないのには、必ず理由がある。
それを見つけろ。
自分に何かが足りないのだ。
だから自分を納得させられない。
一般論で考えるのではなく、自分のオリジナリティ(過去の体験)の領域で考えろ。
自分が気づいていないところに、自分を納得させる鍵がある。
盲点。
今の自分を大きく変化させ、勇気を開く鍵がある。

「当事者意識」があるかないか、そこがターゲットかどうかの判断基準
どういうスタンスで、意見を構築しているか。
何かを語るとき、そこに「自分」が含まれているか?
単に「他人事」として捉えていないか?
もし自分がその人の立場だったら、と置き換えて想像できているか?

“以心伝心がターゲットにしているのは、無条件の想像力を大人になっても持ち続けている人。”

想像力の器は、「異なる領域を、結びつけて考えることができるかどうか」が一つの判断基準になります。
想像力の器が大きな人は、異なるジャンルのことを結びつけて考えることが得意な傾向があります。
たとえば、「企業経営」と、「ニート」を結びつけて考えてみるとします。
想像力の器が並の人は、一般論とか正論というものを根拠にして思考を展開します。
「会社ってこういうもの」、「ニート」ってこういうもの・・。テレビで見聞きしたこととか、多くの人が
言いがちなこととか、そういう一般的な意見に自分の思考を同調させて世界観を構築していきます。
そうなるとその人の思考からは「一般的意見」しか出てきません。
想像力が繋がらないからです。(ニューロン・シナプスレベルで、繋がりがないので、
どう逆立ちしても「理解できない」ということになります。)
逆に想像力の器が大きい人は、「自分の見方」で見聞きし考えてきた蓄積があります。
人生のさまざまな場面で、自分できちんと感じ、またきちんと考えてきた蓄積。
それはその人の心の中に土壌として形成されていき、思考の土台となります。
「企業経営」と一口にいっても、いろんな経営があります。また「ニート」もそうです。
いろんな人たちがいます。そこにはさまざまな課題や問題点があり、またさまざまな可能性があります。

どれだけ大きな視野で物事を考え、感じることができるか。
世界観や価値観は、視野の大きさに基づいて構築されるから。
大きな視野を持っていれば、細部を詰めていくことは可能だ。
いくら大きな視野といっても、現実感覚が欠如していてはダメ。
視野の大きな人には、現実感覚の欠如している人が少なくない。
何らかの「大きな枠組み」に思考が逃げてしまって、現実を直視できていない。
自分以外の他者が作った言葉とか思想とかルールとかで、
自分を正当化してすべてをわかったつもりになる人がいる。
自分自身の感受性で大きな視野を構築していることが不可欠。

子供の頃、水の中を覗き込むのが好きだった。
海水浴に行ったときとか、岩場にたまった水の中を覗く。
そこにはさまざまな生き物たちがいる。
子供の頃、空を眺めるのが好きだった。
何にも縛られず、何にも限定されず、ぼーっと無心に空を眺める。
生きる実感に隙間がない。自分と社会がぴったり隙間なくくっついていた。

子供の頃に無条件にモノを感じる習慣が、想像力を豊かにするために大事だったと思う。
それは親など大人にしっかり守られている安心感があったから出来たことだ。

大人になるときに、その無条件の想像力は、違和感をもたらす厄介なものになった。
僕は水たまりを覗き込むのと同じ感覚で、大人社会を覗き込んでしまう。
無条件に、前提なく、大人社会の営みを捉えてしまう。
すると、違和感をものすごく抱くことになる。

大人になるとき、無条件の想像力を失ってしまう。ほとんどの場合。
一般常識や社会常識を優先して、物事を認識する習慣が身に付くから。
その結果、違和感を抱く能力がどんどん衰えていく。
無条件で想像する力が、どんどん衰えていく。
マグロ病の進行が進む。

以心伝心がターゲットにしているのは、無条件の想像力を大人になっても持ち続けている人。
無条件の想像力とは、物事を公平にみようとする姿勢であり、本質から深く考えようとする力。

「社会の洗脳するチカラ」を意識する。
社会の影響力が自分に及んでいないことを確信する。
これだけ社会的影響力が強い時代において、自分も当然多大な影響を受けている。
だが染まってはいない。自我を保つことができている。
いざとなれば、すべてを疑うことができるだけの心の余裕がある。

違和感を抱く能力

以心伝心のターゲットは、「普通の暮らし」に違和感を抱いた人。
特に自分が不幸だとは思わないけど、何かがおかしい・・。
世の中、根本的に何か間違ってないか?
そういう疑問を抱き続けて生きる人たちがいる。
僕もその一人。そういう人が以心伝心のターゲット。

ほとんどの人は日常生活のなかで慣れてゆく。
毎度のことだと思って、特に意識しなくなる。
違和感を持たないほうが、楽に生きられるのが現実。

世の中に対する違和感がもっと小さければ、小学校時代までのように人に対して寛容にいることができたはず。
他人の長所を素直に受け止め、少々問題があろうと幸せに人生を生きただろう。
でも世の中に対する違和感は、僕にそれを許さなかった。
あまりにもおかしなことが多すぎる。
それらを見過ごして幸せになることはできない。

学生の頃、僕はあらゆることを「留保」していたと思う。
いつも自分のなかで言い知れぬ何かを感じていた。
でもそこで簡単に答えを探すことはしなかった。 とにかくあらゆることを「留保」し続けた。
心のなかの矛盾や葛藤を溜め込むスペースに、判断材料を溜め込んでいった。
それがいわゆる「問題意識」なのだと思う。
自分で目にしたことや経験したことしか、基本的に信用しなかった。
本を読む気にもなれなかったし、テレビ等から流れる情報を信じる気もなかった。
僕は常に「総合的」に判断しようとしていた。

“あまりにもおかしなことが多すぎる。 それらを見過ごして幸せになることはできない。

・残酷な事件のニュースを見て、心を痛めたときに感じたこと
・街を歩いていて、感じたこと
・子どもたちがテレビゲームに熱中している表情を見て感じたこと
・平気で人を傷つけることを言う人たちに接して感じたこと
日常抱く違和感を提示すれば、多くの人に納得してもらえる。
実際の目線を通して違和感を共有できるから。
テレビを見たり、街中で感じたり、仕事先や学校で感じたことなど、日々蓄積した違和感がある。

ためしてガッテンの醤油保存
ミリオンセラーの不思議
街ゆく人たちの生気のない目

繰り返し報道される事件への社会の対応
たとえば宮崎勤事件の過剰報道

なぜ日本の大人たちは、事件や騒動 の背景を見ようとしないのだろう? なぜいつまでも目先の対症療法を繰り返し、 同じ過ちを繰り返すのだろう?

IQ130以上の子供たちが通う聖徳学園を見ていて思った。
「考える力」のほかに、「感じる力」がある。
違和感を抱く力は、考える力よりもより根源的なもの。
考える力は論理的思考力。
感じる力は、「答えのないこと」について深く考える力。
つまり、問題意識を抱く力。

IQの対極にある知性といえる。
IQ Inteligence Quotient 知能指数
DQ Discomfort Quotient 違和感指数 不快指数 違和感を抱く能力

IQの高い子どもは、すべてを分かったような錯覚を抱きがち。
すべてが論理的に理解でき、説明できると考えている。
違和感とじっくり向き合うチャンスがなかった子どもたち。
勉強することに対する違和感を抱かないし、社会の成り立ちに対する違和感を抱かない。
それは大人になっとき、問題意識の未成熟という致命的欠落をもたらす。

くだらない奴がリーダーシップをとるのはなぜなんだ?
なぜ媚びへつらう奴が多いんだ?
集団の中にいて同調していると、自分のエネルギーが落ちるのをいつも感じた。
なんとか合わせようと努力したけど、どうしてもできなかった。
体の底からこみあげる違和感に耐えられなかった。
やがて神経症になった。

振り返ってみて自分の人生に大きな影響を及ぼしたのはなんだろうと考えると、1990年の頃だと思います。
バブル崩壊と宮崎勤事件。この2つが時代の転換点だった気がしています。
その当時僕は16歳くらい、ちょうど多感な思春期の時期に、僕にとっては時代の転換点を迎えました。
バブル崩壊が僕にもたらした意味は、日本社会の後手後手にまわる対応を、嫌というほど見せ付けられたことです。
失われた10年といいますが、その10年間、つまり僕にとっては16歳から26歳までのあいだ、メディアを通じて毎日のように、
日本がいかに誇りのない国、誇りのない社会であるのかを日々学習させられたわけです。無意識のうちに。
宮崎勤事件については、事件そのものの猟奇性や残虐性よりも、「日本のメディアの狂ったような報道騒ぎ」に
僕は大きなショックを受けました。生々しい情報がほとんど素のままで毎日これでもかというくらい垂れ流される。
どのチャンネルをつけても、宮崎勤事件一色に染まっていた記憶があります。
「やばいな・・」僕は直感的にそう感じました。
これは病原菌を撒き散らしているのとなんら変わらない。
こんなことをすれば、知らなくてもよいことを多くの人が知ってしまい、その結果、こういう猟奇的な事件は増えていくにちがいない。
そんな危機感を強く抱いたのでした。同時に思いました。
「なぜこんな簡単なことが、日本の大人たちには理解できないんだろう??」
この疑問は16歳から26歳まで、ずっと僕の中に存在し続け、僕の問題意識をどんどん深めていく原動力になりました。
たとえばJポップがミリオンセラーを連発していた頃、企画モノの歌が簡単にミリオンセラーになっていました。
(ポケットビスケッツとか、ダウンタウンの浜ちゃんとか)
そのときも「なぜこんなすぐに飽きてしまって、二度と聴かなくなるのを分かり切っているCDが、100万枚も売れてしまうんだろう?」
僕にはそれを買う人たちの気持ちがまるでわからなかった。
他にも素敵な音楽はたくさんあるのに、なぜよりによって、その中身のない音楽を選んで高いお金を出すのか?
この現象の意味は、いったいなんなのだ?
朝まで生テレビを見るときにも、「最終的なゴール、ビジョンを提示することなく議論してしまうような人間が、
なぜテレビという最重要メディアに出演して偉そうに議論しているのだろう?」
もうただ純粋に不思議で仕方ないのです。
ビジョンがなければ、議論しても意味のないことは、分かり切っている。
その分かりきったことを、テレビという主流メディアが流している。
とういことは、これは社会全体がそれを受け入れている証拠だ。
ビジョンのない議論を受け入れて疑問を持たない日本人って、いったいなんなのだろう?
この当時の僕はまったく何の知識があったわけでもないのです。
本を読むこともないし、特に社会的な問題に関心があるわけでもない。
ただただ、強い違和感を抱くことが多々あったのです。