書き出し

心に浮かぶ考えを書き出す

■内なる言葉を書き出す

■言葉を書き出すことは、自分の中の思いを「意識化する」こと。
漠然とした不安や葛藤を感じる心の中には、自分自身で感じ取ることのできない思いがたくさん満ちている。
不安や葛藤を本当の意味で乗り越えるためには、自分の中の思いを意識で捉えることが大切になる。
しかしそうは言っても、自分の中の思いを書き出すのは簡単なことではないかもしれない。
最初は何を書いたらよいのか、コツをつかめないかもしれない。
とにかく気づいたことは何でもかんでも書き出していく。
それによって気づく力が磨かれていく。
花を見ては感じたこと、気づいたこと、感激したことを書いていく。
街を歩いていても、感じたことを書き留める。
テレビを見ていて何かを感じたら、それも書き出す。
私は3年前から少しずつこういう習慣を持ち始めたが、最初は手帳に浮かんできた言葉を一言二言書き留めるだけだった。
その量は時間の経過とともに次第に増えていき、現在は1ヶ月に10万字を超えるペースで書いている。
大切なことは、それらの言葉がすべて「自分自身のためだけに書かれている」ことだ。
他人に読んでもらうためではなく、自分自身を表現するために書かれている。
何かをしていると、ふと考えが浮かぶ。
その瞬間を逃さず家にいればパソコンに打ち込み、外出していればポケットからミニサイズのメモ帳を取り出して、電車の中だろうが道を歩いていようがとにかく書き留める。
この習慣を持ってみてわかったがある。
言葉を書き出すことはそのときは何の役に立っているのかわからなくても、
一ヶ月二ヶ月と時間が経つと自分の中に明らかな変化が生まれている。
何かに気づく感覚がどんどん変わっていく。
そういう自分を発見すると嬉しくなって、さらに書くことへの意欲が湧いてくる。
言葉はそのときを逃したら、もう二度と思いつくことはないかもしれない。
言葉は一期一会。
考えが湧き出すのは、体の新陳代謝と同じだ。
言葉を書き出すことで、心の新陳代謝が活性化する。

■問題意識について考えるときは、必ず「書き出し」によって言語化する必要がある。
頭の中で漠然と考えていると、考えることが億劫になる。
今までの体験上ほぼ確実にそうなるのがわかる。
なんでも自由に考えていいし、間違っても平気と感じるから。
この自由で縛られない感覚がとても大事である。

心の奥底で求めているものは、容易に意識化できない。
あくまで感触であり、フィーリングの世界に属するもの。
意識化するには、自分が感じることをとにかく書き出し、一つ一つ認識していくしかない。
それは気の遠くなるような、時間のかかる作業。
なぜなら人の心は複雑で、いろんな思考が詰まっているから。
それを一つずつ洗い出す作業は当然時間を要する。根気が必要。
人から強制されて出来るようなことじゃない。

■書き出しにおいて大事なのは、書き出す作業そのものが目的ではないこと。
書き出しはあくまで鏡にすぎない。
意識は内面に没頭していることが大事。
内面の中を漂っている中で、何か感じたこと、閃いたことなどを、目の前のパソコンに打ち込んでいく。

■自分の心が整理される過程で、自然と言葉が湧き出てくる。
頭で考えたものではない言葉が、心の奥から湧き出してくる。

メモ魔になろう

■メモ魔とはなにか?思ったことを何でも書き留める人間のことだ。
何か大事なことが思いついたりしたとき、懐からサッと筆記用具を取り出し、メモする。そんな習慣を持つ人のこと。
なぜメモの話などを取り上げるのか?不思議に思われるかもしれない。考えをメモしようが、しまいが、変わらないだろうと思われるかもしれない。
しかし声を大にして言いたい。

■メモする人間が、自分を制す。
天才はメモ魔である、という話を聞いたことがある。アインシュタイン、エジソン、ダヴィンチ、彼れはみなメモ魔で、何かを考えたらその場でメモしていたそうだ。
彼らの残した実績を考えると、メモする習慣が知的活動に対していかに大きな効果があるのかがわかる。
何も天才になるためにメモをしろという話ではない。現在、普通の日本人でメモする習慣を持っている人は少ない。
日記やブログを書く人は多いが、それはメモする習慣とはいえない。メモ魔という言葉が示すように、もっと頻繁な行為である。

■人は何かを考えたら、次の瞬間には忘れていく。
人は自らの記憶を整然と残すことができない。パソコンであれば一度保存したデータは、ハードディスクに蓄えられ、クリックひとつでいつでも引き出せる。
しかし人間はこうはいかない。人は生活する過程で、自然に膨大な情報に晒される。人間には五感がある。感情がある。理性がある。
今経験したことを絶えず忘れていかないと、人は人として生活できない。忘れることは必要なことであり、自然なことだ。

■書き出しは、今考えた「大事なこと」を残すこと。
意味のない雑念を残しても仕方ない。何か大事なことに気づいたら、そのポイントを残すのである。
メモする習慣を持つことで、自然に「意味あること」を考えるようになる。
天才はなぜ天才になりえたのだろうか?それはメモすることを毎日繰り返すことで、意味あることを日々大量に考える癖が付いたから。それが僕の考え。
生まれながらの天才という意味なら、人間はみな天才といえる。人間の脳のスペックは恐ろしく高い。
天才とはその本来持つ機能をうまく使えた人。凡庸な人とは、本来持っているスペックを使いきれずに生きている人。
最新性能を持つPCを持っていても、メールとネットサーフィンをやるだけなら意味がない。そういうことではないだろうか。

■メモする習慣の効果は、実際に経験しないと実感できない。
僕自身、以前はメモなんてしなかった。始めたのは今から7年前、27歳の頃である。
僕はメモする習慣をもっていなかったときの自分、メモする習慣を持ってからの自分、両方の自分を知っている。
両方の自分を比較して、そのどちらが良いかは一概にはいえない。メモする習慣がなくて、いつも漠然と生きていた。その頃の自分を否定するわけじゃない。
ただ20代半ばになってからの僕は、正直いろいろしんどかった。
思春期から青年期へと転換し、自分のなかに沈殿していた大量の「何か」を処理しきれなくなっていた。

メモする習慣は、僕にとって必要なことだった。
心が苦しい時、詩を書いたり、短歌を詠んだりして、人は自らの精神を癒すことができる。メモする習慣もそれと同じようなものだ。
僕自身、誰かから教えられてメモを始めたわけではなかった。資格試験の勉強をしていた自習室で、言葉が自然に浮かんできた。
勉強してると、ふと考えが頭をよぎる。考えようと努力したものじゃなくて、無意識にふと浮かんできた。
最初はノートにただ書きつけるだけだったが、あるときからシステム手帳に書き込むようにした。
最初はポツリポツリとたまに湧いてくるだけだったが、徐々に湧き上がってくる量は増えていった。
気づきが気づきを呼ぶ。何かに気づいてメモをする。するとそこから広がった何かがまた浮かんできた。

メモした言葉を、僕はたびたび見返していた。
当時のメモを僕は今でも残している。僕にとって成長の軌跡であり、大事なものだから。たとえばこんなことが記してある。
「かすり傷を大げさに考えるな。」
「集中している一分間の価値は、集中できていない一時間より遙かに大きい。」
「逆境や困難こそが、俺を強くする。」

心を書き出すたびに、一歩ずつ成長してきた。
メモするという行為=何か大事なことを考えた事実 という関係が成り立つ。
メモするのは、それだけの価値があることを考えた証拠。残す価値がなければ、わざわざメモしようとは思わない。
人間の成長にとって、「何を考えるか」という思考の質はきわめて重要である。
人間の精神は、何を考えてきたかの蓄積といってもいい。
メモする行為が増えるほど、大事な思考を積み重ねてきた証。

昔のメモを見返すと、自分が成長したことに気づく。
昔のメモを読み返しても、あまり心に響いてこない。稚拙なことを書いているという印象を抱くからだ。
その頃は一生懸命書いたのは間違いない。しかし今の自分はそこを超えている。だから共感できない。今の自分が成長した証拠といえる。
実際嬉しいものである。以前の自分がわからないと書いていてことの多くが、今の自分はわかるようになっている。
自分が一つ一つの課題を乗り越えてきたことを実感できる。メモを残しておくことで、自分の成長を確信することができる。

メモする習慣は、自分に挑戦する技術である。
メモする習慣を持つことは、簡単ではない。そこでは動機が必要になる。普通に幸せに暮らしていきたいと考えている人が、メモする習慣を持つことはできないだろう。
日記やブログでじゅうぶん満足できるから。メモする習慣は、自分自身に挑戦するための技術である。自分の殻を打ち破るために、自分の精神の洗い出しを行う。

自分の精神構造を把握する

■暗黙知を言語化する。

■書き出しの目的は、自分なりの人生観を構築すること。
自分にとって大事な「人生のルール」を見つける。
物流のバイト時、休み時間にいつも見返していた言葉のようなもの。
ああいう自分にとって人生の指針となる考え方を、自分で見つけ出してストックして洗練させていく。
日々文章を書いているうちに、自然と思いついていく。
何気ない言葉の中に大事な「気づき」がある。

■自分の思いを言語化するために、一番効果があるのは、自分自身に向けた文章を書くこと。
自分が何をどう感じているのかを徹底的に言語化して、
自己批判・自己肯定を繰り返すことで、自分の思いを文章化できるようになる。
僕の場合、3年間で5百万字くらい書き出した。
誰にも見せない、自分の気持ちを知るためだけの文章。
文字数は問題ではない。
意識が「自分の気持ちを書き出すこと」に向いている状態をキープすることが大事だ。
他者の気持ちではなく、自分の気持ちに敏感になる。
そういう状態でないと、自分の気持ちを書き出す作業は難しい。
誰も褒めてくれないし、誰も認めてもらえない孤独な作業。
その作業をやり抜くモチベーションは、自分自身を知りたいという自己実現の欲求が根底にある。

■気持ちが落ち込む原因を把握し、自己管理できるようになる。
落ち込んだり、弱気になったり、モチベーションが下がったりする原因は、たぶん根っこが同じ。
そのことをきちんと把握できていないから、いつも同じことで振り回される。
本質的な原因を自己管理できていれば、落ち込む前に気持ちを処理・整理できるはず。

■左脳を鍛える。

問題意識の深い人たちは、左脳に比べて右脳が発達している。
だからいろいろ感じ過ぎてしまう。
能力を芸術や文学などに振り向けられれば、その人の才能は開花するかもしれないが、
実際にはなかなかそうもいかない。独りよがりなままでは、世間的に通用する才能にはなりにくいから。
独りよがりになる理由は、漠然とした葛藤や不安。
つまり論理的に考え、思考を体系的に整理する力が未発達。
バランスを取り戻すためには、まず左脳を磨く必要がある。
左脳の論理性が磨かれてくると、頭のなかでいろいろなことが繋がり始める。
もともと能力が非常に高い人たちだ。
バランスを取り戻すと、本来の脳力が生き生きと働き始める。

■深い問題意識は、そのままでは不明瞭なまま。
暗黙知の状態であり、カオスの状態。
多くの人は、問題意識が不明瞭なまま生活している。
「なんとなく感じる」だけであり、そこから先には進まない。

■問題意識を整理することで、そこに気づきが生まれる。
文章としてきちんと書き出すことで、腑に落ちる。
次に繋がっていく。
自分の血肉になる。

他人の理解を求めない

■自分の本心を表出するのは、容易なことではない。
なぜなら、それはひとりよがりで独善的で、社会に受け入れられない内容だから。

■誰かに見せることを前提にして書こうとすると、どうしても本音を書けなかったり、装飾してしまったりしてしまう。
自分に向けて書くときは、かなり深い部分で本音を自覚できる。
本音でなければ自分に向けて文章を書く理由がない。
誰にも見られる心配がないので、自分のマイナス面の意識や傲慢さも自由に書ける。
「ああ・・・俺はこんな風に思っていたんだ。なぜだろう?」
「この部分が気になる。知りたい・・・」等々、感じたことを思うがままに書き続ける。
テレビを見て気づいては書き、本を読んでは思ったことを書き、
街を歩いて何か感じてはその場で書き留める。
「読む」ために本を読むのではなく、「書く」ために本を読んでいたようなものかもしれない。
書くことって、その場では意味がないようにと思えても、時間が経つといろんなことが深い部分で「繋がっている」ことに気づかされる。
考えたことは必ず潜在意識に送り込まれて、何らかの材料になっている。
そのことを自覚できて、何かを考えることに無駄はないんだと思えるようなる。

■根底において思考するとき、心の奥底から湧いてくる思考は抽象的なことであることが多い。
それは「他の誰かを納得させるための思考」ではない。
あくまで自分自身を納得させるための思考。
感じたままに、飾らずに、内面を書き出すことが大事。
「誰かに見られたらどうしよう・・」とか誰か他の人の目を気にしていると、本心は決して表現できない。

稚拙・傲慢でいい

■心のブレーキを外すのが目的。
「こんなこと考えちゃいけない」という
社会の中で身についた自制心。
そのストッパーを外すには、自分のエゴと向き合う必要がある。

■初期の書き出しは、とても読み返せたものではない。
独りよがり、思い込み、焦り、不安、葛藤。マスターベーション以外の何物でもない。とても他の人に見せられるものではない。
しかしこの段階はどうしても必要なのもたしか。
きれいごとばかり書いても仕方がない。
自分の限界を超えるには、見苦しいくらいもがく必要がある。

■"論理性と感性の融合"を模索している。
分かれがちな両者を、融合させることによって、 新たな可能性が世の中に生まれると信じている。
この模索の過程においては、どうしてもバランス感覚が崩れてしまう。
むしろ崩さなければ、融合を模索することはできない。
僕の文章は全般的に、直接的で、遊びがなく、余裕がなく、 論理がすぐに飛び、思いやりがない、と思う。
それは僕にとっては、仕方がないことだ、と思っている。
文章を書いていて、とにかく何かを発展させることばかりを考えている。
こ文章は、実験場だ。 この文章では、常にバランスを崩し、失敗していきたい。 現実の場で、バランスの取れた学習システムをつくるために。
だから、文章の質自体にはまったくこだわらない。
読む人には、誤解を与えることも多いだろうが、それも仕方がないと割り切って書いていきたい。

■初期の段階では、関心を社会的なものに向かわせるようにする。
書き出しも、社会的事項についての学習の範囲でやってもらう。
論文を書くという名目のもとで。
次第に論理的思考力が付いてきたら、今度は内面的な方向に向かわせる。
関心が自然と内面に向かうのを待つべきかもしれない。

■表現については、感じてないものを表現することは不可能だが、
何かを感じているのであれば、それを表現するのは訓練をするかしないかの問題。
僕も数年前まではまったくできなかった。

■自分が過去に書いた文章を読んで思ったこと。
あまりの傲慢さに、我ながら呆れてしまった。
散々迷惑をかけた人たちに対して、自分勝手で恩着せがましいことを書いている。
その文章を読んでいて思った。
自分と向き合うことは、このようなバランスを欠いた内省の連続なのだ。
素晴らしい理想ばかりを考えて、「自分」に辿り着くことはできない。
ときには傲慢に、自分勝手なことを主張して、自分と闘う必要がある。
そういう過程の意見に対して、いちいち怒ったり幻滅したりしてはならない。
それは、あくまでプロセスにすぎないのだから。
自分の中にある毒と闘う必要がある。
その毒と向き合うとき、どうしても批判的になったり、苛々して怒ったりすることを避けられない。
怒りをどこかにぶつけることで、自分自身と闘っている。

■気づいたことを「ノートに取る」といいでしょう。
僕はこの3年間、ずっとそうやってきました。
街を歩くときは、ボールペンとポケットサイズの落書き帳を肌身離さず携帯しています。
そして何か発見があったら、忘れないうちに書き留めておくのです。
小さな気づきが積み重って、初めて「大きな気づき」がやってきます。
小さな気づきがなくては、大きな方向転換は決してやってこないでしょう。
頭だけの思考はとても難しいものです。
「積み重ね」が少なく、いつも同じ場所を「堂々巡り」するはめになりがちです。うまく進歩できません。
言葉を書き出すと、「気づきのサイクル」に入ります。
ぜひ「ふとした言葉を書き留める習慣」を持ってみてください。
そのときは馬鹿みたいな気づきでも、長い目で見ればそこには大きな流れが生まれています。
「書き出す言葉に無駄はない」と僕は信じています。
「馬鹿みたい」で、「幼稚」で、「初歩的」で、「他人には見せられない」ことを、どんどん書き出してください。
僕はそれをやりました。

書き出しを習慣化させる

書き出しは、マインドビッツと並び、以心伝心の学びの中核に位置する。

マインドビッツ…インプット
書き出し…アウトプット

過去の書き出しを読み返すことで、自分の成長を確信できる。
以前わからなかったことが、今はわかるようになっている。
自分が正しい方向に進んでいることを確認できる。

この数年間に自分が書き溜めてきた文章は、僕にとって最高の宝物。
そこには無数のヒントが隠されている。
この膨大な資料を再検討し、価値を再発見する時期だと思う。
ニューロンのネットワークを密にしていこう。バランスよく神経細胞を鍛えていく。
「気づき」を何度も繰り返し心に刻み込むことで、心の森を深くしていく。
社会常識に屈しない、強固な世界観(=信念)を獲得する。
そのためには、ひとつひとつの文章について、自分のこれからの人生での位置づけを考えていこう。
しっかり頭を働かせて読まなければ意味がない。

書き出しを習慣化できるのは、自分自身と向き合えるようになった証拠。

僕の以前の書き出し

書き出しがどのようなものか、僕自身がこの10年間に書いてきたものを抜粋する。

■ある訴訟問題についてのテレビ番組を見ていて感じた。
行政と被害者住民の議論の場。弱々しい担当者が、一身に住民たちの怒りの集中放射を浴びている。
その担当者には決定権などあるはずがない。「物事は大局的に眺めなければ、本質は見えない。」
枠の外に外に出ていく思考をすることが大事だ。その場に意識を奪われると、感情論になってしまう。感情では何も解決しない。
希望だけが感情を癒す。希望は、本質と共にある。

■江戸時代までは、上に立つ者たちが自らの誇りのために自刃をした。庶民で自殺をする人間はいなかったと思う。
明治以降の近代化社会は逆だ。上に立つ者は自らの立場を守ることに汲々とし、自ら命を絶つ人間などまったくいなくなった。
いっぽうで、年間3万人を超える庶民が自殺をする時代である。
この違いは、組織の成り立ちに大きく原因がありそうだ。江戸時代までは世襲社会だった。近代は能力主義による組織構造となった。
能力主義による組織では、帝王学が身につかない。管理職の意識が大きく育ったまま、組織のトップに登り詰めることになる。
こうなるともはや自らの命を懸けるほどのプライドを持つトップは出てこない。

■「夢はかじりかけがいいと言うじゃない」とあるプロ野球の監督がテレビで言っていた。そのとき思った。
夢と希望の違いはそこだ。夢は叶ってしまったらそこでオシマイ。燃え尽きてしまう。
でも希望はそうじゃない。希望は永遠に続く道程だと思う。僕の場合、社会の根幹を変えるという希望が叶ったら、あとは悠々自適の釣り生活を送りたい。
もちろん両者は密接につながっている。社会がよい方向に進んでいるという希望があるからこそ、穏やかな気持ちで釣りができる。
希望とはどこまでも終りがない。自分だけのものじゃない。多くのものと分かち合うものだ。
それに対し夢は個人的なものである気がする。今の日本には夢はたくさんあるが、希望がない。

■考えてみると、情報とは奇妙なものだ。物質なのだろうか?それとも光?DVDのディスク1枚に、二時間分の映像が入っている。
これらは厳密には平面の二次元情報だ。だがそれを鑑賞する僕たちは、その世界に入り込むことができる。心の空間で堪能することができる。
今後、僕たち人類は、情報という物質の価値に気づくことになる。それは現在の物質至上主義に取って代わっていくだろう。
資源の有限性を考え、僕たちの脳の潜在性を考えると、方向性はそちらとしか思えない。
いずれ物の豊かさに飽きて、情報を駆使して自らの心を耕す作業の豊かさに気づかせれるだろう。

■世間の荒波に長年揉まれた人は、年を取って味のある丸みを帯びる。
苦労しながら多くの子どもを育てたお母さんとか、町工場でささやかなものづくりを長年続けたおじさんとか。
非常にいい丸みを感じさせる。自然な暖かさがある。それはひとつのゴールだ。

■プロ野球の巨人横浜戦のクライマックスを見ていて感じた。九回表巨人2点リードで、横浜の攻撃、ツーアウト満塁の場面。
一打同点、逆転の場面。みんな緊張感を持ってみている。当事者は必死だ。その様子を見ていて思った。
「僕にはこんな緊張感に縛られる理由がない。それは凄い開放感だ。その縛られない立場をフル活用すれば、多くの日本人のなかで巨大なアドバンテージになる。」
プロ野球に限らず、多くの人たちは緊張感に縛られている。仕事上の責任とか、他人との人間関係とか。僕にはそんなものは関係ない。これは素晴らしいことだ。

■ノーベル経済学賞を受賞した経済学者が素晴らしいことを言っていた。
「僕はフクロウが絶滅するとしたら、それに強い怒りを感じる。フクロウが絶滅しても僕の生活水準が直接下がるわけではない。
なぜ怒りを感じるのかというと、僕の生きている人生の価値が下がるからだ。僕が生きたいと望んでいる世界にもはや存在できないからだ。
僕はそのことに強い怒りを感じるのだ。」
僕もまったく同感だ。多くの人が葛藤を負わず、不安を抱かないような頭の使い方、心の使い方をすると、僕の生きている人生の価値が下がる。
そのことに怒りを感じる。許せない。

■なぜ僕が仕事をするのが嫌なのかが、はっきり理由がわかった。「仕事はミスしてはならない」という大前提がある。それが僕には不向き。
僕は根本を変えようとする人間だ。根本を変えるためには無数のミス、無数の間違いを犯して、根本までたどり着く必要がある。
仕事においては、些細なことに対するチェックが多すぎる。
そのような細かいことに想像力を使いたくないのだ。根本を変える者にはミスが必要なのである。

■人間の数だけ、僕という人間が存在する。僕のことを悪く言う人がいれば、素晴らしいと讃える人もいる。
それが彼ら自身の問題であって、僕が関知することじゃない。自己イメージはシンプルなほうがいい。
シンプルな自己イメージであれば、無数の人間たちが形成するイメージに惑わされなくなるから。
複雑なイメージを持とうとすると、結果的に他人の中の自分に振り回される。


■自己イメージをどのように持つか。これは想像以上に重要だと思う。
とくに大事なのは、自分のバランス感覚に対する自信だ。どんな難しい状況になっても、絶対にバランス感覚を見失わないという確信。
この日本社会で事を成すために欠けてはならぬ資質。自分がどんな人間であるかをいつも自分に確認する。それが自信と揺るぎない態度につながる。
その自己イメージで日々の行動は決まるといっても過言ではない。

■何か嫌なことがあっても、相手を憎まない。その勝負では絶対に自分に勝てないから。
憎しみは自分の心のみを焼く。許容できる自分を思い出せ。憎しみが嘘のように消える。
普通の人なら絶対に怒ることでも、許容できる。そんな自分が大好きだし、誇りに思っている。
許容できるということは、意識が自分に向いている証拠。自分自身を大切にしている証拠。
許容することは、完全に自分の中での喜び。他者は関係ない。あくまで自身の話。そこがいい。

■病んでいる社会では、病んでいる人間が普通とされる。
病んでいる社会では、病んでいない人間が異常とされる。

■どんな事情を聞かされても、物事を決め付けないようにしよう。物事を決め付けると、知らず知らずのうちに心を縛るはめになる。
可能性を閉ざしてはならない。物事は単純ではない。事情など本人にとっての物語にすぎない。
個別の事情に関知しない姿勢でいることだ。話を聞いたら、いろんな可能性を考えよう。
物事はあまりに複雑だ。誰を責めることもできないし、誰に非があるわけでもない。犯人さがしに付き合う暇はない。
何かを聞いたら、隙間を探って自分に言い聞かせるのだ。
物事は意外な事実を含んで成り立っている。何十万、何百万というような膨大な要素が相互に作用し合って、状況が成り立っている。
それをどうして一面の情報だけで決め付けることができるだろうか。できるはずがない。