真心パラドクス

考える人間 が馬鹿を見る社会

想像力を使いすぎて苦しむ。それほど馬鹿げた話はない。
なぜ考えすぎると、人生が辛くなるのか。
この考え方は、多くの想像力で苦しむ人に共感を得られると思う。

考えすぎないほうが、今の世の中では確実に暮らし易い。
考え過ぎるほど、出口のない迷路に嵌ってしまう。
僕が言いたいのは、仕事を卒なくこなすからといって、その人が人間的に
有能なわけでも優れているわけでもない、ということが言いたいのです。
考え深さという点では、疲労困憊しながら
不器用に生きている人のほうが、はるかに潜在能力が高い。

矛盾すること、相反することが、複雑に折り重なって絡み合って、現代社会を構築している。 経済、正義、思いやり、怒り、生活、友達、孤独、優越感、お金、安心。 様々なことが無秩序に引っ張り合っている。 すべては同じ糸で繋がっているが、複雑な絡み合いを見つめうとするほど、頭がこんがらがる。 心に葛藤が生じる。 合理化して生きることのできる人には生き易い時代。 本質を理解しようとする人には生き辛い時代。

心に認識する社会構造が多重的になるほど、自分の本心が見えづらくなる。
さまざまな価値観が相克し、何が正しいのかわからなくなる。

“想像力を使いすぎて苦しむ。それほど馬鹿げた話はない。”

「分析する心」によって疲弊する。
くだらない、どうしようもないものを分析すると、とても疲れる。
嫌気も、期待も、いらない。
あるがままに受け流せばいい。
自分と向き合う、自由な精神の流れのなかで。
批判する気持ちが湧き上がってきたら、それを冷静に分析しよう。
「その批判は、意味のある批判か?」
「将来の希望に結びつく批判か?」
自分の心に巣食うネガティブな反応を、ただ無視するのでなく、
それが意味のあるものかどうか検証する。
無意識でどんな情報を掴まえるのかは、重要な問題。
意識がネガティブなことばかりを掴まえるのが、精神力が減退した状態。

良くしたいという情熱が、仕事の現場で空回りする。

僕を含めて、多くの人たちが、働くことへの過剰な恐怖を抱いている。
この恐怖感の「源」について書きたい。
「この恐怖は、感覚の領域に、心を使おうとするから生まれる。」
仕事に、過剰な「心」を持ち込んでしまう。 その「こころ」を使うと、現代社会の仕事にとっては不都合なのだ。 なぜなら「こころ」を必要としない、きわめて感覚的な仕事が多いから。 「この場合はこうやる。」「あの場合はそうやる。」
そういったルーティンワークがほとんど。
働いている本人は「こころ」を使っているつもりでも、
そこには「前例」を参考にする意識が働いている。
この場合、どうすればいいんだっけ? どう解決するのが、一番無難かな・・?
いわゆるバランス感覚。現実対処の力。
それは「こころ」ではない。 それは「感覚」にすぎない。
いや、そうではない、仕事にこころは大切だよ、と言われる人もいるだろう。
それは人それぞれの考え方だから、それでいいと思う。
でも僕がここで問題にしている「こころ」とは 「たましいの領域から生じる純粋なこころ」の話なのだ。
現在の日本社会では、そういった「感覚」が あまりにも肥大化し、時代を席巻しすぎている。
ここに心の荒廃や不安社会と呼ばれる原因がある。

心の牛刀を鶏料理に使っている。 心の深い部分にある、大きなパワーを持つ領域を、ごく些細なことに使ってしまう。
当然「大きさが合わない」というミスマッチが生じる。 改善策。
「その心の大きなエネルギーを、大きさに見合った何かに向かわせる。」

感情労働

人の心が荒んでいる、というのは働くうえで本当にしんどい。
3K、4Kと言われるが、それとは次元の違うしんどさ。
きつい、汚い、危険、給料安い、心が汚い。

日本の社会性、というのは、ほとんどが「目先のこと」で成り立っている。
その場がうまくゆきさえすればいい、というスタンス。
日本社会の大部分を占めるこのような考え方が、
本質のわかる人間の頭を混乱させ、疲弊させる。
目先の考えというのは、そもそも深い意味などない。
であるのに、その意味を深く読み取ろうとするから思考の泥沼に陥る。
そういう社会では「深く考えない人間」のほうが生きやすく有利。
だから深く考えない人たちが増えた。
社会の空気に乗ることが、ライフスタイルの主流になった。
行き着いたのが現在の「空気を過剰に読み合う社会」。

日本社会において、自分の感覚を守り、「自立して生きる術」を得ることが何より大切である。
世間からつかず離れずの姿勢で生きていく。
おそらくもっとも重要になるのは、「都市の行動原理に巻き込まれない」ことだ。
つまり「組織原理に巻き込まれることなく、誰にも恥じることなく生きていく」ことが大切。
今の俺自身を考えてみても、学習能力が高まると反比例して、生きづらさを感じるようになった。
日本人の狭く偏った想像力に我慢がならない。
彼らの集団心理、集団ゲームに巻き込まれることが耐えられない。
といって生きるためには「社会という集団」から逸脱することも許されない。
このパラドックスが最大の難所だ。

現代日本では、世の中の利害システムに組み込まれないと、
満足に生きていくことができない。 いろんな意味で、すっかり染まってしまっている。
生活をすることはけっして楽じゃない。 そんなご時勢に真心?
寝ぼけるのもたいがいにしろ!と言いたくなるかもしれない。
そういう時代になってくると、多くの人は我が身を守ることに必死になる。
自分の仕事、自分の愛する家族を守るために、
目の前のことにきちんと誠実にこなそうとする。
でもそういう誠実さとか真面目さが、逆に今の世の中の閉塞感を加速させている
一つの大きな原因であることに、そろそろ僕たちは気づくべきだ。

真心とは

現代日本において、真心はパラドクス(逆説)を抱えている。
つまり、真心を大切にしている人ほど、生きていくことが辛い世の中だ。
今の日本社会においては、真心を使うことが非常に難しい。
まごころ・・。
この言葉自体が、なんだかとても陳腐で使い古されて、チープなイメージすら感じさせる言葉かもしれない。
なんだか怪しげな思想とか、新興宗教とかのイメージを抱いてしまうかもしれない。
でもここで伝えたいのは、もっと心の奥深くにあるとても柔らかくて、漠然とした領域のこと。
真心・・・。
相手のことを、相手の立場から思いやる気持ち。相手の気持ちを自分の気持ちと同じか、もしくはそれ以上大切に思う気持ち。
なぜ今の日本では、真心とかいう言葉がこんなにも陳腐に感じられてしまうのだろう?
嘘くさく感じられてしまうのだろう?

心はとても強いもの。
心で感じることを押しとどめることはできない。

真心(まごころ)とは、「事に触れて動く心」 (本居宣長)

真心とは、人間が持つ本来の情愛など、自然な心のこと。
生まれながらに持つ、人間本来の知性。
それが失われつつある現状が、僕には我慢できない

真心とは、子供のような無垢の心。
真心の反対は、社会的な心。

東南アジアなどの後進国の人たちを見ていて「真心」があると感じる。
インドネシア介護士の思いやりとか、東南アジアの人たちの純情。
アフリカの子供たちの笑顔と大きな黒い瞳。
彼らは「事に触れて動く心」を持っている。
心に規制がかかっていない。過剰な社会慣習に縛られていない。

一つ疑問。
北欧の人たちの「真心」はどうなっているのだろう?
彼らの合理性と、「事に触れて動く心」には、どのような関係があるだろう?
北欧社会は、「真心の社会化」に成功しているのだろうか?
つまり、真心を保ったままの人間性と、社会性との両立を実現しているのだろうか?

 

世知辛さが真心を潰す

無関心・先送りの「言い訳」としての一般論

典型パターン
世の中は厳しい
甘え、ゆとり
自立というのは、はっきり言って日本の大人たちの言い訳にすぎない。 そのセリフを言っていれば、すべてが帳消しにできる魔法の言葉なのだ。
みんな一緒

いまの世の中には「思考障壁」が存在する。
自由に考えることを許されない。
「これ以上考えてはいけない」
「これ以上考えると社会から逸脱する」という壁。
その壁が日本人に過剰な常識を植えつける。

思考(心)を放棄すれば楽になるんだろうけど、どうしてもそれは受け入れられない。
心を捨てることは、死ぬことに等しい。

デジタル社会が進んだ結果、人々の精神構造までがデジタル化の波に飲まれている。
全体を統合する知性に圧倒的に不利な時代。
本質や根本を問う知性に圧倒的に不利な時代。

「恐竜脳と自分勝手な人たち」

誰かが現在の自分中心の社会を「恐竜脳の時代」と言っていた。 自分の欲望だけに忠実に生きている人たち。
そんな人たちが今、確実に増えている。 自分に与えられた範囲のことしか考えることをせず、余計なことは我関せず。
目を見ていれば、そういう人はかなりはっきりわかる。 アメリカ人の目と似ている。
深夜テレビでやってる健康器具のデモンストレーションをしているアメリカ人の、あの目。
自分の関係することしか関心を持たずに長年生きている人の目。

“「これ以上考えてはいけない」 「これ以上考えると社会から逸脱する」という壁”

そういう日本人が今どんどん増えている。 彼らは自分の権利を主張することに関しては、妥協と疲れを知らない。
自分に危害が及ばないと黙っており、少しでも自分の領域に手出しされると烈火のごとく怒り狂う。
世の中のどこに行っても、こういう人たちがどんどん勢力を伸ばしている。
相手にするだけ疲れる。 想像力をきちんと持とうとする人間には、どんどん肩身が狭い世の中になりつつある。

想像力とは、自分だけじゃなく、他者の視線をもって世界を眺めることだ。
でなければ進化の過程で大脳新皮質を獲得した意味がない。 大脳新皮質は、世界の意味を繋げる、広大な記憶装置。
その容量は無限大であり、どれだけ使ってもけっして一杯になることはない。使えば使うほど、情報の取捨選択能力が洗練されていくから。

大脳新皮質、つまり人間脳を育てるための学習の場をつくりたい。
その中核は、映像学習。 映像はまちがいなく、人間を次の段階へと進化さえるツール。
いつの時代にも必ず次のステップは用意されている。 せっかくの宝が目の前にあるのに、人類はまだその使い方に気づいていない。

無条件の愛情が、真心を育む