真心は進化できるか?

真心パラドクスを乗り越える

世知辛さを乗り越える

以心伝心で学べるのは、日本社会への抵抗力。
世知辛さにどうしても慣れることができない。
みんなと同じように何も考えずに生きれば、どんなに楽だろうかと思う。
でもそれはできない。それをやると、結局もっと辛くなるのがわかってるから。

日本人として生きていくかぎり、この社会に逃げ場はない。
自分の力で、自分にとっての幸せをつかみ取っていくしかない。
欲しいのは、世知辛さに負けない力。
欲しいのは、人々の想像力のなさに幻滅しない力。
欲しいのは、大事なことを守るために自分自身を貫く力。

この世知辛い世の中で、自分自身を貫いて生きる。
他人に迎合することなく、素の自分を守って生きていく。
以心伝心では、そういう能力を身に付けることができる。

今の日本社会では、自分自身と向き合って生きることが出来ない。
社会常識とか、人間関係とか、そういうしがらみの力があまりに強すぎる。
自分と向き合おうとすると、わけのわからない、底の見えない迷路に入り込む。
正しさとは何か、やさしさとは何か、強さとは何か。
そういうことがまるで見えなくなる。
生きている意味、努力することの意味が分からなくなる。
そういう社会のままでいいはずがない。
自分と向き合える社会を目指すべきだ。

本当の意味で強い人間になる。

目指している「方向性」

君は独立独歩で歩いているね。周りには人が見当たらない。
君が進んでいる方向には、君の他に誰も歩いていない。
君は独りぼっちでどこに向かって歩いているんだい?

僕はね、社会の外を歩いているんだよ。
僕は日本社会の中で生きているけど、同時に日本社会の中では生きていないんだ。
僕はアウトサイダーなんだよ。

社会の外?
抽象的すぎてイメージできないな。
もう少し分かりやすく説明してくれるかな?

世間一般の人たちの想像力の外側ってことさ。
いわゆる悟りとか、解脱とか、そういうのと近いと思うんだけど、
でもよく言われるような神秘的なものとはまったく関係ない。
あくまで生身の人間としての精神構造の話さ。
悟るってことは、悩みや葛藤から解放されることじゃない。
葛藤や悩みの質が変わるんだと思う。
より高度な葛藤と向き合うのが、悟りといわれることの本質だと思う。
むしろ外側のほうが葛藤は強いよ。
ただ質が違う。ここでは純粋に葛藤することができる。
自分が本当に知りたいことにじっくり向き合うことができる。
なぜなら社会の外側だから。
僕は世間の流れから降りたんだよ。ドロップアウトしたんだ。
自分で「その場所」を見つけて、自分の意思でそこに進むと決めたんだ。

“社会常識とか、人間関係とか、そういうしがらみの力があまりに強すぎる。 自分と向き合おうとすると、わけのわからない、底の見えない迷路に入り込む。”

君は自分が「悟った人間」だと思うのかい?

というよりも、その質問に意味はあるのかな?
「悟ること」がゴールじゃないんだよ。
「解脱」ってなんなの?って僕は思うよ。よくそれがゴールみたいに言われるけど。
ウィキペディアで調べてみたら、だいたい次のような意味らしい。

『解脱とはこの世の世俗的な束縛からの解放であり、自由な境地を獲得したことである。
つまり、「僕は○○だ、僕はこれほどの事を為したから、あのような結果があって当然だ、こうあるべきだ・・・・・・」
等々の世俗に纏わる囚われからの解放を意味する。
従って目の前に起こった出来事が、どんなに自分にとって不都合であろうと、
甘んじて受け入れるという、そうした精神を持てることが解脱という。』
(以上、ウィキペディアの「解脱」の項より抜粋)

僕はこの文章を読んで、前半は共感するけど、後半部分は受け入れがたい。
「どんなに自分にとって不都合であろうと、甘んじて受け入れる。」
これはない。僕は甘んじて受け入れたりしない。
たしかに世間的な囚われから解放されることは大事だけど、そこがゴールじゃないんだ。
自分を解放するのは、あくまでスタートラインだ。「大人」としてのスタートライン。
そのポジションに立って、そこから自分が世の中にどうやって貢献していくのか。
それが僕の考える「真の成熟」。
だいたい僕は宗教というものが好きになれない。
過去の時代にはそれなりに役立っていたんだろうけど、
今の時代にどれほどの意味があるんだろうと思ってる。

君はこう思ってるのかな。
時代はもはや宗教的なものを超えつつあると思う。
インターネットの発展やドッグイヤーと呼ばれる技術革新が、人間に膨大な情報を与え始めている。
過去100年で人間の情報環境は本当に劇的に変わった。
その影響は間違いなく人間と社会の関係性に作用する。
君のような人間が生まれたのも、現代という時代があってこそだ。
今は昔よりもはるかに「悟りやすい時代」といえる。
悟りのバーゲンセール状態だね。
なぜそうなったかというと、さまざまなメディアを通して
「自分が体験したことのない世界」について知ることができるからだ。
たとえばマンガというものは、社会の成り立ちを知るのにものすごく効果が高い。
そこには本質が描かれているから。

無条件の思いやり

相手を気遣って親切に振舞うだけが、思いやりではない。
本物の優しさには、『相手のことを思う気持ち』が必ず含まれている。

傷をなめ合うような馴れ合いの関係は求めていない。
本当の優しさには相手のことを思いやる気持ちが必ず含まれている。
傷をなめ合う優しさに、相手のことを心から思う気持ちが入っているのだろうか?
どうしてもそう思えない。
意味のあること、大切なことに対してであれば、人は積極的に傷つくべきだ。
不安や葛藤が無意味でないように、意味のある傷つきは大切。
どんな傷つき方が、意味のある、大切な傷つきなのかと聞かれると、僕にもわからない。
ただ傷つくことにあまりにも敏感すぎる気がする。 ネット上のやり取りでも、そういう印象を受けている。
言葉が通り過ぎている。 自分の中に留まらない言葉が、今の世の中には溢れている。
表面上の優しさをいくら積み重ねても、どこにもたどり着けない。
お互いを傷つけてもいいとは思わないだろうか。
本気で相手のことを思う気持ちがあれば、ときに相手を傷つけてもかまわないと感じないだろうか。
そういう優しさが存在するとは思わないだろうか。

他人のことを本当に思いやるには、その人自身が強くなくてはいけない。
自分に余裕がないと、他人のことまで思いやる余裕を持てないから。。

日本では相手のことを思いやろうとしても、個々人の想いがバラバラになっていて、
どうやって相手を思いやればいいのか見えない。

叱る=相手のことを思いやる気持ち
怒るんじゃなくて、叱る気持ちを持つ。
興奮する気持ちの先には、いつも日本を思う気持ちがある。
僕が怒っているとき、そこには自分の不平不満がある。
世の中を思う気持ちは消え失せ、自分の苛立ちを解消したい気持ちが優勢。
そういう自分では強くなれない。イライラから逃れられない。
叱る価値のあること、叱る意味のあるもの、を相手にして生きていこう。
叱られる、叱咤激励される価値のある自分でいよう。
僕は怒りたいんじゃない。僕は叱りたい。

優しさの裏側には同量の厳しさが必要。
それがバランス感覚ということ。
それらは同じ感情であり、表裏一体。
感情間の隙間がない。
相手を傷つけるかどうかという心配がない。
怒りは優しさであり、優しさは怒りだ。
悲しみは憎しみであり、憎しみは悲しみだ。

知性を進化(深化)させる。

地球大進化より。
「弱者は進化しなければ生き残れないのに対し、 王者は進化する必要もなければ、進化するチャンスもない。
安住していた環境が崩れるとき、王者は絶滅するしかない。
それは板皮類(ばんぴるい)にかぎったことではなく、地球の変動は その時代のトップに君臨した王者達を、冷徹なまでにことごとく絶滅させてきた。
栄えすぎて進化を忘れた者には絶滅が待っている。 それが生物進化の理なのだ。」

地球大進化の最終回を見ていて感じた。
アカンソステガという僕たち人類の先祖は水辺の枝の下でひっそりと暮らしていた。
枝の堆積した隙間で、体長5メートルの肉食魚から隠れて暮らしていた。
そのときに枝を掻き分けるために、ヒレが手に進化した。
弱者であるがゆえに、進化したのだった。
僕たちの手はそれから3億年かけて、進化の歴史を生き抜いてきた。
3億年かけて作られたシステムなのだ。
そう考えると、手の機能に自信を持つことができる気がした。
なんという凄いことなんだろう。
3億年かけて、厳しい生存競争を生き抜いて、僕たちは今人間として機能している。

“本物の優しさには、『相手のことを思う気持ち』が必ず含まれている。 ”

NHKスペシャルで「地球大進化」というシリーズ番組をやっていました。
最初の原始生命が地球に誕生してから、今日までの進化の過程を、CG映像を駆使してわかりやすく説明していました。
その番組で印象的だったのは、「地球上の生命の歴史は、弱者の歴史」であるということです。
人間がここまで知性を発達せて、生き残ってきたのは、強者ではなく弱者だったからです。
人類がまだ体長1メートルほどの魚だった頃、その頃には「板皮(ばんぴ)類」と呼ばれる鎧をまとったような巨大で獰猛な魚がいました。
体長は4、5メートルもあったように記憶しています。
そのような天敵の脅威に晒された人類のご先祖は、当時水底に溜まっていた、落ちて重なった枝葉のわずかな隙間に身を潜めたのです。
そして枝葉の下を這うようにして生活していました。
その枝葉の下を這い回る過程で、胸ビレが腕に進化したというのです。
つまり強者として君臨していたから進化したのではなく、弱者として身を潜めるように耐えていたおかげで、進化が生じた。
生命の歴史は弱者の歴史。
現在の社会を見ると、弱者とは、まさに心を病む人間たちです。
そしてご先祖様が水底に潜ったように、今多くの人間が自宅に潜むようになっています。
といっても腰の辺りから2本の腕が生えてくるわけではないですよね。それはありえない(笑)。
身体的な変化ではなく、脳の中で進化するのではないかと僕は予想しています。
脳の神経細胞、ニューロンのレベルで、大きな変化が起きていると考えています。
心の病は、脳内の神経細胞のネットワークがより複雑化していくための過程だと僕は想像しています。
それがある程度完了する頃には、社会は競争原理から調和原理へと大きく舵を変えるだろうと思っています。

僕には自分の緊張は、進化の過程にある「弱者の変貌」の一つの側面だと思うようになってきている。
つまり一部の能力を後退させることによって、未知の能力を開こうとしている過渡期だと思っている。
心の病のすべてがそうかどうかはわからない。
でもこれだけニートや心の病が急増している背景には、かならず意味があるはずだ。
進化は弱者が自らの存在を守るために変貌することによって生じる。
もしそうであるならば、現在自信満々で闊歩している連中よりも、心の病を背負い込んで
悩み苦しんで生きている連中のほうが、はるかに飛躍の可能性がある。僕にはそう思える。
だからこそ、彼らの眠っている能力を解き放つための、あらたなシステムが必要なのだ。

鍵は「前頭葉」にある。

前頭葉を働かせるコツ
=「他者の中にある社会」を念頭に置いて生きる。

社会の奥行きとは、他者の想像力の奥行き。
社会を理解できないのは、他者の中にある社会を想像できないから。
他者の中に広がる「社会の姿」を想像すると、何もかもがスムーズに落ち着く。
いつも行きどまりを感じていた「思考の苦痛」から解放される。
留まるところを知らない無限の想像力を獲得できる。

心は精緻なブロックのようなもの。
積み上げていって構築される。
間違った積み上げ方をしてしまうと、直すのは容易ではない。
自分できちんと判断して、公平に見つめて、その結果の考えを構築していくべき。
一般論で安易に構築すべきではない。
物事を決めつけず、過度に批判的にならず、でも安易な肯定もせず、己の眼でしっかり本質を見抜くこと。
慎重に情報を取り入れること。
それが出来れば、無数の価値観を限界なく取り込める器の大きな人間になれる。

自分に打ち勝つ

社会と対峙する力としての「穏やかさ」を磨きたい。
心を穏やかに深めることで、世知辛さに対抗する。
生きていれば性格の悪い人間と出くわすけど、自分が穏やかであれば客観的でいられる。
嫌な相手を穏やかに見つめることができれば、心は乱されない。

原因を自分の側で握る。
自分に原因があったのだから、当然責任は自分にある。
言い訳をしない生き方。

「どこまでいっても、一人の人間しかいない。」
常識も社会も世間も、その人の心の中にしか存在しない。
そこから抜け出すことが、自律した個人の実現につながる。
世間という幻想は消える。

自分の生き方について、深く考えて覚悟を決める。
両親にどのように恩返しをするのか。
優しさや思いやりは、自分にとってどのようなものであるべきか。
他人に迷惑をかけることをどう捉えるか。
適当にしていると、日々の生活で心が定まらない。
一貫性のないフラフラした生き方になる。
一人の大人として、自分の人生をどう生きていくのか。
以心伝心が目指す「新しい庶民」「新しい大人像」とはそういうこと。

「自分にとっての幸せのイメージ」をつかむ。
この社会を生きるうえで、自分は何が欲しくて、何が欲しくないのか。 「自分を知る」とは、自分がこの社会を生きていくうえで何が欲しいのか、を知ること。
そこがクリアになるほど、それ以外のものを心から「欲しくない」といえる。
自分が本当に欲しいものがわかれば、世間一般の価値観に流されることがなくなる。
「欲しくない物」をバッサリ切り捨てると、心の活性が高まる。
自分が欲しくないもののために努力する必要はなく、自分が本当に欲しいもののために頑張れる。

嘆くばかりでは何も変わらない。
社会や他人を否定するだけではいけない。
他人を見下すのではなく、自分を見上げる。
自尊心を高めることにより、世間に対する偏見や劣等感、嫉妬を乗り越える。
「このような社会状況のなか、これだけのことをやれる自分は大したやつだ」と自分を見上げる。

“不安や葛藤は、無意味で無価値なゴミではない。 不安や葛藤は、れっきとした思考である。 ”

①自分の主観を大切にして生きる。
②社会のこと、他人のことをきちんと想像して生きる。
この両輪がかみ合うと、自己勝手ない、自分中心の生き方ができる。

否定することの無意味さを知る。
態度のことではなく、否定的な気持ちを抱くこと自体の無意味さを理解する。
磁石。世の中に散在するありとあらゆる希望を引き寄せる磁石。 否定的な気持ちでは、希望を引き寄せることはできない。

世の中の批判の仕方を学ぶ。

みっともない愚痴ばかり目につく。一方的な見方、自分本位で無責任な意見。
以心伝心で学ぶのは、そんな批判とは逆のやり方。
「理解する」という批判の仕方
政治に問題があると思うのなら、政治を理解すればいい。
教育に問題があると思うなら、教育について理解すればいい。

理解することなく、一方的な見方で批判するのは、かっこわるい。 自分本位な批判をしても、誰の心にも届かない。ただ傷を残すだけだ。
問題があるなら、徹底的に理解すればいい。

不安・葛藤は潜在意識の整理期間

現在の社会のなかでは、不安や葛藤というのは、とかくマイナスイメージをもたれるが、僕はそうは思わない。
不安や葛藤には、大切な意味がある。
不安や葛藤は、無意味で無価値なゴミではない。 不安や葛藤は、れっきとした思考である。
そのことを僕自身実感し続けている。
自分にとって新たな展望が開けるときは、いつも「大きな不安と葛藤の後」だった。
どうしようもないくらい、落ち込んで、ブルーで、行き詰まってしまう。
笑顔を一切忘れ、全身を倦怠感が包み込み、頭は重く、モヤモヤしている。
鏡を覗くと、そこには生気を失って、憔悴した自分がいる。
瞳に力はなく、充血し、うっすら涙目になっている。
自分がどこにも繋がっていなくて、誰にも必要とされていないような気がする。
自分の価値を信じることができない。 そこには何の手ごたえもなく、ただただ沈んでいる。
でも今になってみると、よくわかる。
あの深い葛藤と不安の時期にこそ、僕にとって人格を揺るがすほどの「心の再編」が行われていたのだ。
自分には自覚できない潜在意識レベルで、凄い勢いで思考活動がなされていた。
そのことに僕は確信を持っている。
でなければ、葛藤が晴れた後に湧いてくるインスピレーションの理由がない。
葛藤が晴れるときには、自分の思考世界が厚みを増したことをいつも感じる。
葛藤すればするほど、自分の世界観が広がっていくのを感じる。
葛藤や不安は「潜在意識の整理期間」だと僕は推測している。

「不安とは一体なんだ?」
不安とはどういうものだろう?
僕たちは不安を持つことをなるべく避けようとする。 心がグラグラするのが嫌だから。
現在の日本ではとくにその風潮が強い。 元気で明るく迷いのない心理状態が良しとされる。
不安っていったいなんなのだ?
不安を持つことで、人は何を得て、何を失うというのか?
あまりにも漠然としたテーマかもしれない。
不安について考えるなんて、それこそ不安を増長するだけじゃん・・・と言われるかもしれない。
でも不安という問題は、僕たちが考えている以上に重要な内容が含んでいる気がするのだ。
不安が生まれるのは、言うまでもなく僕たちの心のなかの出来事である。
何か自分の手に負えない事態に遭遇したとき、僕たちは不安感に悩まされる。
自分の足許の地面が底抜けたように感じ。 心がドッと重くなる。 不安はやたらと疲れる。
楽しい時間を天国に例えるならば、不安な時間は地獄。
自分の周囲の景色がよく見えない。 肌つやが悪くなる。 いつも同じところをぐるぐるグルグル回る思考。
不安などできることなら持ちたくない。 不安なんてできるだけ避ければいいじゃん? それでもっと楽しいことを一杯やればいいじゃん?
でも・・。 だけど・・。
不安にもなんとなく意味がある気がするのだ。
この世に起きることに意味のないことなど一つもないとよく言われる。
もしそうであれば、僕たちに生じる不安にも、何か大切な意味が、役割があるはず。
問題を整理しよう。
不安は僕たちを成長させるのか。 それとも僕たちを駄目にするのか。
どっちだ? あなたはどちらだと思う?

なんとなく漠然と不安になる。よくあることだ。ふと気づいたら不安感の渦中にいる。
こういうときは、不安は自然な心の流れであることを理解しよう。
僕の自意識よりも遥かに深いレベルでの精神活動、知的活動なのだ。
自意識でコントロールできるはずがないし、する必要もない。
おそらく不安感は、心の再構築の過程なのだと思う。
何かを学び、何かに気づいたときには、いったん心の防衛システムを解除して書き換えを行う必要がある。
そのときに既存のシステムが強固に働いていれば、心の再構築はできない。
この防衛解除の状態が、不安感としてあらわれる。
これはとても重要で、高度な精神活動なのだ。
だから不安を感じたら、感じるままに受け入れればいい。ただ流れに身を任せればいい。
時とともに必ず治まっていくもの。

不愉快さ、違和感のなかにこそ、目指すべき方向性が潜んでいる。
その違和感を国民全員から徴収して、巨大な袋の中に詰めたら、現在の社会問題の総体と同量となるでしょう。
何が言いたいかというと、ひとりひとりが違和感を乗り越えないかぎり、世の中はよくならないということです。
そして違和感を乗り越えることができるのは、当の本人にしかできません。